Why Systemization

なぜ仕組み化を追求するのか

毎朝、誰よりも早く出社する。部下に任せようとしても、結局は自分が処理する。休みの日にもスマホが手放せない。気づけば数年が経っていた。そんな感覚を、一度でも持ったことはないでしょうか。

それはあなたの能力が足りないからではありません。むしろ逆で、あなたが有能であるがゆえに、会社があなたを中心に回るように設計されてしまっている。その状態が、多くの経営者を静かに消耗させています。

孤独なリーダーが過労や精神的な疲弊に追い込まれるというのは、特別な話ではなく、日本の経営現場で日常的に起きていることです。経営者が現場を離れても組織が自走する「経営の型」をつくることは、単なる効率化ではありません。経営者に、未来を構想する時間と、一人の人間としての余白を手渡すことだと考えています。

経営という仕事には、免許がない

医師も、弁護士も、車のドライバーも、他者の命や生活に深く関わる仕事には必ず免許という関門があります。体系的に学び、技術を証明した人間だけが、その仕事に就くことを許されます。

では、社員とその家族の人生を預かる経営者という仕事はどうでしょうか。免許も、公的な教習所も存在しません。多くの経営者が、何の体系的な訓練も受けないまま、何十人、何百人の生活を乗せて走り始めています。

この問題に正面から向き合いたいと思っています。経営センスや社長の勘という言葉でブラックボックスにされてきたものを解体し、誰が実践しても成果が出る再現可能な型を構築すること。属人的な職人芸を、誰もが学び習得できる技術へと変えていくこと。それが出発点です。

仕組み化とは、マニュアルを作ることではない

ひとつ、誤解を解かせてください。私たちの言う仕組み化とは、作業マニュアルを整備したり、業務ルールを作ったりすることではありません。社長の頭の中にある判断基準や、その会社独自の勝ちパターンを解体し、経営の型そのものを構築することです。

これまで経営は、特別な人間の特別な能力によって成り立つものだと思われてきました。しかしそれを、普通の人が正しい型の中で非凡な成果を出せる技術へと書き換えることができると信じています。

だが、ここで必ず引っかかる人がいる

こう書くと、決まって同じ疑問が返ってきます。

経営を型にするというのは、結局、人を型にはめることではないのか。誰がやっても同じ結果が出る会社とは、誰であってもかまわない会社ということではないのか。人を部品として扱う思想ではないのか、と。

まっとうな疑問だと思います。そしてこれは、私たちがその思想を学んできたマイケル・E・ガーバーの本を読んだ人が、必ず一度は感じる引っかかりでもあります。

彼は一方で「人に依存せずに回る会社を作れ」と言います。ところが同じ人物が、人生の目的とは何かを問い、会社は学校だと言い、働く人の成長について熱っぽく語る。冷たい効率化の話と、温かい人間論。この二つがなぜ同居しているのか。

私はここに矛盾はないと考えています。というより、順番が決まっている。人間性のほうが先にあるのです。

仕組みは、いちばん下に置かれている

『はじめの一歩を踏み出そう』の構成を思い出してください。事業戦略の話に入る前に、必ずプライマリー・エイム、つまり自分の人生の目的が置かれています。その下に事業戦略目標があり、組織戦略、マネジメント戦略、人材戦略と続いて、システムはいちばん最後に来ます。

この順番が答えのすべてだと思っています。仕組みは目的ではなく、最下層の手段として定義されている。上には必ず人間の生の目的がある。

だから「人に依存しない」というのは「人間を軽んじる」という意味ではありません。社長個人の気まぐれや、その日の機嫌や、属人的な勘に、他人の人生と会社の運命を預けるな、という意味になります。

機械のように働いているのは、誰か

もっと腹に落ちる言い方をしてみます。

仕組みのない会社では、人間のほうが機械のように働かされています。毎朝同じトラブルに反応し、同じ判断を場当たりで繰り返し、夜には消耗しきっている。考える余裕などありません。

逆に、機械にできることを仕組みにきちんと預けると、人間はようやく人間らしいことに手が回るようになります。判断すること、創ること、人と関係を結ぶこと、育つこと。

つまり仕組み化とは、人間から仕事を奪う作業ではなく、人間から機械的な部分を引き剥がす作業なのです。ガーバーが機械的な人間と意識的な人間という対比をたびたび持ち出すのは、ここに理由があるのだと思います。

彼の人間観はけっこう厳しい。放っておけば人は無自覚に反応するだけの機械になる、という冷たい前提があります。この厳しさを甘く読み替えてしまうと、仕組みが救済の装置である理由が消えてしまいます。

マニュアルを書くことは、自分を理解する訓練になる

マニュアルを書く作業にも同じ構造があります。ふつうは誰でもできるようにするためだと考える。ですが実際にやってみると、あれは自分が無意識で何をやっていたのかを言葉にする作業です。自分を理解する訓練にほかなりません。仕組みを作ること自体が、作る人間を成長させます。

顧客の側から見ると、話はもっと単純になる

ここまでは働く側から見た話です。ガーバーにはもうひとつ、顧客の側から仕組みを根拠づける筋があります。

彼は起業家の夢を、自分がどうなりたいかという個人的な夢と、他者に何をもたらしたいかという非個人的な夢に分けています。この視点に立つと、仕組みとは顧客への約束を守るための装置になります。

職人に依存した会社では、今日は機嫌が悪いから、体調が悪いから、という理由で品質にムラが出ます。ガーバーに言わせれば、それは顧客ではなく自分のエゴに仕えている状態です。

いつでも、誰がやっても、約束した価値をムラなく届ける。この利他的な目的を果たすためにこそ、強い仕組みが要る。効率化やコスト削減として語られがちな仕組み化を、一段上へ引き上げるのはこの視点だと思います。

型を守れ、と、型を変えろ、は矛盾しないのか

ガーバーの中には、一見ぶつかる二つの要請があります。

  • ひとつは規律です。決められた型どおりに、最高の基準で仕事を提供せよ。これは実のところ、オレ流でやりたいという自我との戦いになります。退屈で地味な戦いですが、その過程自体が人を鍛えます。
  • もうひとつは主体性です。イノベーション、数値化、オーケストレーションという循環は、現場の全員が仕組みを作り変える側に立つことを前提にしています。

並べて置くとぶつかります。ですが順序の問題として整理すれば矛盾しません。まず型を体得する。数値化を通じて、型の限界を自分で発見する。そこで初めて改善提案の資格が生まれる。守破離そのものです。

破りたい者が最初から破れば、それは我流に戻るだけです。逆に、体得したあとも改善の権限が与えられなければ、型は牢獄になります。

会社を学校にするという話も、この順序があって初めて成り立ちます。教えるべき型がなければカリキュラムは作れません。何ができたら一人前なのかを定義できず、できるようになったという実感も与えられない。型があるから守破離が回るのであって、型なしには破りようがないのです。

むしろ大事なのは、これが崩れる条件のほう

ここまで整合性を説明してきましたが、実務で本当に役に立つのは、それが崩れる条件のほうだと思っています。三つあります。

  • ひとつめは、順番を逆にしたとき。人生の目的を飛ばして仕組みから入ると、ただのマニュアル化に堕ちます。E-Myth が誤読されるのは、だいたいこの型です。ガーバー自身が後年、精神性の話に大きく振れていったのは、この誤読への揺り戻しだったのではないかと思っています。
  • ふたつめは、型を身につける前に改善権限だけを与えたとき。基準を持たない人間が仕組みをいじれば、標準化は成立せず、属人的な我流に戻ります。
  • みっつめは、型を体得したあとも、改善の主体になれないとき。仕組みを作り変える側に立てなければ、社員は与えられた型に従うだけの存在になります。この瞬間に、人間性の話とは正面から矛盾します。

自社の仕組み化が健全かどうかは、この三点で診断できます。

  • 仕組みが目的の下に置かれているか。
  • 型を体得する道筋があるか。
  • 体得した人間が仕組みを変える側に回れるか。

仕組み化に冷たさを感じたとき、たいていはこのどれかが外れています。

彼が理想の会社を設計したら、どうなったか

ひとつ、面白い標本を紹介させてください。

『Awakening the Entrepreneur Within』という、邦訳の出ていない本があります。その中でガーバーは、自ら構想した架空の事業をいくつか提示しています。実在の企業事例ではなく、彼が理想的にはこう作りたいと考えたものが、そのまま形になっている。制約も妥協もないぶん、思想が無修正で出ています。

「Who is Manny Espinosa?」という標本

そのひとつが「Who is Manny Espinosa?」という人材事業です。サービス業のエントリーレベル人材、とりわけ雇用機会から取り残された移民コミュニティの若者を対象にしています。ただの人材紹介業ではなく、六週間の集中トレーニングが事業の中核に組み込まれていて、ガーバーはこのモデル自体をライフアカデミーと性格づけています。

そこにこんな一節があります。

彼らはエントリーレベルの仕事を、仕事ではなく学校だと認識している。彼らにとってそれは、お金をもらえる教育なのだ、と。

会社を学校にするという抽象論が、事業モデルそのものとして具体化されている。しかも受益者は経営者ではありません。いちばん条件の悪い、末端の働き手です。

さらに、カリキュラムを構成する五つの能力、集中、区別、秩序、革新、コミュニケーションを見ると、これが事実上そのまま仕組み化の要素になっています。秩序は混乱の中に秩序をもたらす能力と定義され、革新は常により良い方法があると信じる信念と定義されている。E-Myth で事業に対して使われていた語彙が、ここでは個人の人生に対する能力として説明されているのです。

そして何より、この事業は E-Myth でいうフランチャイズ・プロトタイプの理想形として設計されています。誰がやっても同じ結果が出て、拡張可能で、投資も回収できなければならない。ところがその中身は、徹頭徹尾、人を育てる事業でした。

仕組み化の極致として設計した事業が、人間教育そのものになっている。この入れ子構造が、私にはいちばん強い証拠に思えます。

免許のない仕事に、教習所をつくる

この構想を読んで気づいたことがあります。ガーバーがここで扱っているのは、訓練を受けないまま実務に放り込まれる人たちの問題であり、そのための教習所が存在しないという問題です。

冒頭で書いた、経営には免許がないという話と、構造がまったく同じなのです。層が違うだけで、問題は同一です。彼はエントリーレベルの働き手についてそれを言い、私は経営者についてそれを言っている。そして彼の構想は本の中の架空の会社で終わりましたが、こちらは実際に作るつもりでいます。

承継のタイミングで失われていくもの

親から会社を継いだ二代目、三代目の経営者の多くが、静かな困難に直面しています。先代が現役の間は機能していた会社が、承継を境に揺らぎ始める。それは後継者の力量の問題ではなく、先代の頭の中にあった暗黙知が、形のないまま引き継がれてしまうからです。創業者の想いや成功の法則を、仕組みという形ある資産へ変換しておくこと。それによって後継者が迷わず舵を取れる状態を作ること。優れた技術や文化を持ちながら承継のタイミングで失われていく会社を減らすために、できることがここにあります。

2050年までに、日本中に増やしたい会社

そして、特別な才能を持つ一部の人だけが成果を出せる組織は長続きしません。多くの会社が、言われたことをやれという文化の中で、個人の可能性を知らず知らずのうちに狭めています。仕組みがある組織では、普通の人が安心して働き、着実に成果を上げ、顧客に本物の価値を届けられるようになる。それが積み重なったとき、社員一人ひとりが自分の仕事には意味があると実感できる職場が生まれます。

2050年までに、そういう会社を日本中に増やしたい。それが社会への約束です。

経営のノウハウを、一部の人だけが持つ特権にしておくのではなく、誰もが活用できる水道水のように普及させること。私個人のコンサルティング時間を削ってでも、この型を広く届けられる仕組みを作ること。私がいなくても成長し続ける組織を証明することで、一人の人間に依存しない経営のあり方を示したい。それが、仕組み化を追求し続ける根本にある意志です。

結び

構造としてはこうなります。

最上位に人生の目的があり、その下に他者に何をもたらすかという夢がある。この二つを、いつでも、誰がやっても、ムラなく届けるための器が仕組みです。器の中で人はまず型を体得し、体得したからこそ型の欠陥が見え、やがて改善する側に回る。ここまで来て初めて、会社は学校になります。

だから、人に依存しない会社と、人間性を追求する会社は対立しません。前者があるから後者が実現できる、という関係にあります。

会社をよくしたい、自由に生きたいという個人的な衝動から始まったこの仕事は、いま、社会のインフラを創るという目標へ育ちました。経営を、才能ある一人の天才だけのものではなく、誰もが幸せに挑戦できる技術へ。それが、変わらない動機です。