”運命”、”宿命”、”立命”には違いがある
運命、宿命という言葉は日常的に良く使われる言葉ですね。「これも自分の運命だ」「宿命のライバルとの対決」などと言われます。しかし、同じ命という字が使われていても、両者には大きな違いがあります。
また、日常的にはあまり使われないものの、立命という言葉もあります。「立命館大学」くらいしか目にしない言葉かもしれませんが、運命、宿命の違いを理解するにあたって、立命も理解しておく必要があります。
以下、昭和の大思想家、安岡正篤氏の言葉をもとに解説していきます。
運命の中に、宿命と立命が含まれる

言葉を見てみますと、いずれの言葉にも含まれる「命」という字。これは「いのち」であり、それ自体は何かが生きているという存在そのものを指します。
運命とは?
運命の「運」は、創造や進化してやまない、という意味合いがあります。したがって、そこで運命という言葉は、動い てやまないという意味を含んでいます。世間一般に、「これも運命だ」というように、固定的、既に決まっていることのように思われていますが、そうではないのです。
宿命とは?
宿命の「宿」は、宿ると言われるように、止まる、固定されているという意味があります。そのため、宿命は、決まった道と言えます。安岡氏の言葉を借りると次のようになります。
人間は母の体内から出て、呱々の 声をあげた瞬間に一生のことがきまっておるのだ、その後の人生、すなわち次第に成 して、花を開き、実を結ぶ、あるいは嵐にあって全うできず、中途で滅びるなどの ことが、きまりきっているというふうに考えるのが宿命であります。
立命とは?
立命とは、宿命と異なり、自然の法則、理法を知って、自分の人生をそれに従って、意志で開拓して いくべきもの、自主創造していくべきものを指します。
運命、宿命、立命の違いを学べる物語「陰隲録(袁了凡)」のあらすじ
安岡氏が、運命、宿命、立命の違いを教えるのに、引用しているのが、袁了凡という人が書いた「陰隲録」です。以下にあらすじを見てみましょう。
宿命を悟る
袁了凡は代々学者の家に生まれました、幼名を「学海」といい、将来医の道に進もうと考えていました。
ある日、立派な風貌の老翁(孔という人物)があらわれ、少年だった袁了凡を見て尋ねます。
「何を勉 強しておるのか」
袁了凡は、「父が他界したため家が貧しく、早く立身し なければならないので、母と相談をして、医者になろうと勉強をしている」と答えま した。
すると老人は、
「いや、お前は立派な役人になって出世 をする進士の試験にも及第する。だからそんな勉強をやめて進士の試験の準備をし なさい」
と教えました。
そのうえ、「お前は私の教えどおりに勉強すれ ば、何年、何歳のときに予備試験を何番で合格し、本試験は何番ぐらいで合格する。 そしてどういう出世をして、何歳で寿命がつきる。たいへん気の毒であるが子供には 恵まれない」
と予言をしました。
それを聞いた袁了凡は非常に感動して、いままでの勉強を止め、進士の試験の勉強をし、受験してみたところ、老人の予言したとおりの 成績で合格したのです。
袁了凡は、
「なるほど人間には運命というものがあ って自分の一生は決っておる。くだらぬことに煩問したり、考えたり、野心をもったりすることは愚かだ。神様がちゃんと進むべき途を予定してくれておるので、下手にもがいてくだらんことを 考えても何にもならん」
と感じました。
つまり、少年ながらに、自分の宿命を悟ったのです。
立命に至る
宿命を悟った袁了凡は若いながらも、老成した風格ができてしまいました。
あるとき、南京のお寺に滞在していたところ、雲谷という禅師に出会います。
雲谷は袁了凡の風格を感じ取り、尋ねます。
「お 前さんは、見うけたところ若いのに似合わず人物ができとるようだが、どういう学問をしたのか、どういう修業をしたのか」
袁了凡は、
「いや、私は特別にそういう勉強も修養もいたしませんが、ただ少年時代 に、不思議な老易者が私を見て、お前はこうこうだと予言をしてくれました。それが 実に恐ろしいほど的確に当りますので、人間には運命というものがあって決まり切っ くだらぬことを考えても何にもならないということに気がついて、世間の青 年のようにつまらぬことを考えたり、煩悶懊悩することをやめました。あるいはその せいでお目にとまったのかも知れません」
と言いました。
すると雲谷は、
「何だ、そんなことか、それじゃ昔から偉人、聖 人などが何のために学問修業をしたのか全く意義がないではないか。自分の運命は自 分でつくっていくのであって、学問修業というものは、それによって人間が人間をつ くっていくことなのだ。そういう風に人間をつくっていくのが大自然、道の妙理、極 意なのだ。お前の理窟では、聖人などの学問修業は何にもならぬことではないか。 馬鹿な悟りを持ったものだ」
と喝を入れたのです。
驚いた袁了凡は、それからというもの、これまでの宿命論を考えなおします。
そして、出世の道を歩み、かつて老人にできないといわれた子供も誕生します。
晩年に子供たちへの教訓として、自分のいきさつを書いて残しまたのが「陰隲録」です。
このように、自分の人生は既に決まっていると考えていた少年は、それが勘違いであるということに気が付いてから、人生が好転していったのです。
運命は宿命ではない
「陰隲録(袁了凡)」からわかるように、自分の人生は決して決まっているものではありません。
経営者として様々な困難に合うと、どうしても最後は神頼みになり、占いなどに傾倒する人もいます。そこで自分の運命は決まっているのだから、これはこうしたほうが良い、これはああしたほうが良い、と占いの先生の言いなりになってしまう人もいるようです。
しかし、運命は宿命ではありません。経営者としては自分の人生、会社を自分の意志で切り開いていく”立命”こそ心がけるべきでしょう。


