松下幸之助のなにがすごいのか

松下幸之助のなにがすごいのか?生い立ちから功績までまとめました。


清水直樹
松下幸之助氏は経営の神さまと呼ばれていますが、いったい何がすごいのか?その生い立ちから功績までを振り返ってみましょう。
なお、本記事の執筆にあたり、以下の書籍を大いに参考にしております。ぜひ手に取ってみてくださいね。
経営の神様と呼ばれた
動画解説はこちら:

松下幸之助氏とは?

松下幸之助氏は、日本の実業家であり、パナソニック(旧松下電器産業)グループの創業者として知られる人物です。1894年(明治27年)に和歌山県で生まれ、1989年(平成元年)に94歳で生涯を閉じるまで、日本の経済界に多大な影響を与え続けました。

松下幸之助氏のプロフィール

  • 1894年:和歌山県に生まれる
  • 1917年:大阪電灯(現関西電力)に勤務
  • 1918年:23歳で松下電気器具製作所(後のパナソニック)を創業
  • 1946年:PHP研究所を設立
  • 1979年:松下政経塾を設立
  • 1989年:94歳で逝去

「経営の神様」と呼ばれる理由

幸之助氏が「経営の神様」と称されるのは、以下のような卓越した経営手腕と哲学によります。

  1. 逆境からの成功: 「ないない尽くし」の状態から、日本を代表する大企業を築き上げた
  2. 先見性: 「これからは電気の時代だ」と早くから電気製品の将来性を見抜き、事業を展開
  3. 革新的経営手法: 日本で初めて事業部制を導入するなど、先進的な経営手法を実践
  4. 人材育成: 「企業は人なり」の精神で、人材育成に力を注ぎ、多くの優秀な経営者を輩出
  5. 経営哲学の確立: 「企業は社会の公器である」という理念を掲げ、社会貢献を重視
  6. 大衆向け製品開発: 「水道哲学」に基づき、良質で安価な製品を大量生産・販売
  7. 著作活動: 「道をひらく」をはじめとする多くの著書を通じて、経営哲学を広く普及
  8. 教育機関の設立: PHP研究所や松下政経塾を通じて、次世代のリーダー育成に尽力

これらの功績により、幸之助氏は単なる成功した実業家としてだけでなく、日本の経済発展に大きく貢献した「経営の神様」として広く認知されています。その経営哲学と実践は、現代のビジネスリーダーにも大きな影響を与え続けています。

最初に経営の神様と呼ばれたのは?

ちなみに同氏を最初に「経営の神様」と呼んだのは、1957年当時大阪府知事だった赤間文三氏だったとされています。同氏は座談会の中で、「商売の神様、産業の神様、松下さん」と発言しました。また、1962年には京都新聞に「松下さんはいまや経営の神さまのようにいわれている」と掲載されていたそうです(「経営の神様と呼ばれた男」

松下幸之助氏の生い立ちを詳細に解説

幸之助氏は1894年11月27日、和歌山県の裕福な地主の家に生まれました。8人兄弟の末っ子として、両親に可愛がられて育ちました。家の近くには樹齢800年の松の大樹があり、これが「松下」の姓の由来とされています。

松下幸之助といえば、小学校も卒業していない貧乏な家庭の子だった、というイメージが強いですが、実は最初は裕福だったのですね。

貧困へ転落した幼児時代

しかし、幸せな日々は長く続きませんでした。

幸之助氏が4歳の時、父親が米相場で失敗し、一家は急激に貧困に陥ります。先祖伝来の土地と家を手放し、和歕市に移住。父は単身で大阪に働きに出ることになりました。この急激な環境の変化は、幼い幸之助氏の人生に大きな影響を与えることになります。

1901年に雄尋常小学校に入学した幸之助氏でしたが、家庭の経済状況から学業を中断することになります。そして1904年11月23日、満10歳の誕生日の4日前、幸之助は一人で大阪へ向かいました。母との別れは幸之助氏にとって非常に印象的な経験となり、後年まで鮮明に記憶に残ることになります。

大阪での丁稚奉公

大阪での丁稚奉公生活は、八幡筋の宮田火鉢店から始まりました。「幸吉っとん」と呼ばれ、主に掃除や子守りの仕事をしていた幸之助は、初めての給料である5銭に大喜びしたといいます。しかし、母との別れの寂しさから、最初の数日は夜に泣いていたそうです。幸之助氏は末っ子だったこともあり、母親からとてもかわいがられていたのです。

後にもつながる自転車屋での丁稚

ただ、宮田火鉢店は規模を縮小することになり、丁稚奉公はわずか3か月で終わります。1905年2月には五代音吉の自転車店に移り、ここで本格的に商売の基礎を学びます。技術的な仕事にも携わり、特に旋盤の使用など機械的な仕事に興味を持ちました。この経験は後の事業展開に大きな影響を与えることになります。

船場での6年間は、幸之助氏にとって非常に重要な期間となりました。後年、この時期を「今日の商売の一つの基礎になっている」と評価しています。特に船場商人の「真剣勝負」の精神に深く影響を受け、これが後の経営哲学の根幹を形成することになります。

ちなみに自転車業界とのつながりは松下電器が大きくなってからも続きます。いまでもパナソニックは電動自転車を販売しています。

電気業界への転身

幸之助氏の自転車屋から電灯会社への転職は、彼の人生における重要な転換点となりました。

15歳を過ぎた頃、幸之助氏は大阪の街を走り始めた路面電車の姿に強い印象を受けます。この光景から、彼は電気の時代が到来すると直感的に悟ったのです。この洞察は、幸之助氏の将来に大きな影響を与えることになります。

しかし、この決断は簡単なものではありませんでした。五代自転車商会の音吉夫妻には大変お世話になっており、店を去ることに対して深い罪悪感を抱いていました。それでも、幸之助は自身の将来を見据え、意を決して店を去ることを選びます。

最初は関西電力の前身である大阪電灯に直接就職することはできませんでした。そのため、一時的に桜セメントに勤務し、そこで約3ヶ月働きました。この期間は、後の重労働に耐える体力を培う上で重要な経験となりました。

そして1910年(明治43年)の秋、ついに幸之助氏は大阪電灯の幸町営業所で内線見習工として採用されます。満15歳でのことでした。これは彼が長年あこがれていた電気事業への第一歩となりました。

すぐに頭角を現す

内線係の仕事は、各家庭を回って電灯増設のための屋内配線工事を行うものでした。見習工である幸之助の仕事は、工事担当者の後ろから材料を積んだ丁稚車を引いて回ることでした。この仕事は体力を要するものでしたが、幸之助氏は桜セメントでの経験から、それほど苦にせずに働くことができました。

さらに、幸之助氏はこの仕事に大きな興味を持ちました。1日に5、6軒回れば仕事が終わり、午後4時頃には帰社できること、そして様々な顧客と接することができる点に魅力を感じたのです。

幸之助氏の勤勉さと飲み込みの早さは、すぐに認められました。入社からわずか3ヶ月で見習工から工事担当者に昇格し、新設の高津営業所への転属を命じられたのです。1917年(大正6年)には最年少で検査員に昇格しました。

松下電器の創業

検査員として、1日に15軒から20軒ほどの家を見て回る中で、工事担当者の癖や仕事ぶりをよく知っていた幸之助氏は、要点さえ見れば仕事の良否がすぐにわかるようになりました。朝7時に出勤し、いろいろと打ち合わせをした後、9時頃には出発して、要領よくやると昼には仕事が終わる日々が続きました。その後の時間は自由で、映画を見たり、会社に帰って雑談をしたりして時間をつぶしていましたが、しばらくするとこの生活に空虚さを感じ始めました。半日勤務し、残りの時間を無駄に過ごしていることに耐えられなくなったのです。

ぜんざい屋で独立を考える

また、幸之助氏は肺尖カタルにかかり、健康に不安を感じるようになりました。そして独立を決意します。最初に思い付いたアイデアは「ぜんざい屋」でした。甘いものが好きだった幸之助氏は、本気でぜんざい屋をやってみたいと考えていたのです。しかし、奥さんに相談したところ反対され、そのアイデアを諦めることになります。

その後に目を付けたのは、ソケットの改良です。自らが開発し自信を持っていた改良ソケットを主任に見せましたが、「これは使いものにならんね」とすげなく言われ、悔しい思いをしました。主任に認められなかったものの、自身の考案した改良ソケットが良いものであると信じ続けました。

そして、大正6年6月、幸之助氏は辞表を提出し、大阪電燈を退職しました。この決断がなければ、幸之助氏は大阪電燈の技術者として異なる人生を歩んでいたかもしれませんが、この勇気ある決断が彼を松下電器産業(現在のパナソニック)の創業へと導きました。



ソケットの失敗

自分が作ったソケットに自信をもって独立した幸之助ですが、最初から問題に突き当たります。いくらで売ったらいいのかわからないのです。そこで彼は、普通ではあり得ない行動に出ます。問屋にいって、原価を公開し、いくらであれば売れるかを聞いてみたのです。普通は原価を公開してしまったら買いたたかれるため、非公開にします。しかし、幸之助にはそんな常識はありませんでした。幸い、問屋さんは誠実な人で、相場を教えてくれました。ようやく値段が決まったわけですが、方々回ってもたいして売れませんでした。総額10円(いまでいう10万円くらい)にしかならなかったのです。

事業が軌道に乗る

危うく倒産しかけるわけですが、回っていた問屋から川北電気を紹介されます。川北電気は扇風機を作っており、その部品を松下に発注してくれたのです。その商売が安定してきたことによって、ようやく事業はスタートしました。

幸之助は次々に商品を発明します。その中でもヒット作となったのが、自転車のランプでした。当時売られていたランプは2-3時間程度で消えてしまうものでしたが、幸之助が開発したものは30時間も持ちました。その便利さが受け、事業は大きく発展していきます。その後もアイロンやラジオなどを開発し、会社は成長していきました。

松下幸之助と戦争

1941年、第二次世界大戦(大東亜戦争)が勃発します。この戦争はそれまで順風満帆だった幸之助、そして松下電器にとって当然ながら大打撃になります。

1941年12月8日:太平洋戦争の勃発

1941年12月8日、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まりました。日本軍が米英に対して戦闘を開始し、国民は最初は勝利に歓喜しましたが、戦局は徐々に悪化していきました。この時期、日本の産業はすべて軍需生産に動員されることとなり、松下電器もその例外ではありませんでした。

戦時中の松下電器:軍需産業への転換

松下電器は軍の要請により、航空機用の電装品、無線機、方向探知機、レーダーなどの生産を開始しました。さらに、昭和18年(1943年)には、未経験の250トン型「木造船」の建造を開始し、松下造船株式会社を設立しました。この造船事業は、ラジオ工場の流れ作業方式を応用した独創的な工法で行われました。

また、昭和18年10月には松下飛行機株式会社を設立し、木製飛行機の量産を開始しました。これもまた、軍の要請によるものでした。松下電器は戦時中、船や飛行機の生産を通じて軍需産業に貢献しましたが、戦局の悪化とともに資材不足や労働力の確保に苦しみました。

1945年8月15日:終戦

終戦の日、松下電器の幹部社員たちはラジオで終戦の詔勅を聞き、全員が深い絶望感に包まれました。しかし、松下幸之助はすぐに復興に向けた方針を打ち立て、民需産業への転換を決意しました。終戦直後、松下幸之助は「今こそ明確なる方針のもとに、全員が一致団結し、復興に努めなければならない」との決心を固め、幹部を集めて復興計画を発表しました。

戦後の苦難と復興

松下電器は戦後、復興に向けた一歩を踏み出しましたが、9月2日にGHQから発せられた一般命令第1号により、陸海軍解体と軍需工業停止を目的とした命令が出されました。この命令は松下電器の民需生産再開にストップをかけました。これに対し、松下電器の社員たちは大きなショックを受けましたが、すぐに許可申請活動を展開しました。事情を説明し抗議を続けるうちに、民需生産転換の基準が決まり、9月半ばにはラジオの生産が許可され、その後、乾電池、電熱器、電球と次々に生産が許可されました。10月中には全事業場が生産を再開することができました。

しかし、1946年に入ると状況は一変しました。日本は悪性インフレに見舞われ、GHQの方針も一層厳しくなりました。松下電器は相次ぐ制限令により厳しい状況に追い込まれました。3月には制限会社に指定され、全ての会社資産が凍結されました。6月には松下家が財閥家族に指定され、7月には賠償工場に指定され、一部の生産施設が接収されました。8月には軍需補償が打ち切られ、11月には松下幸之助が公職追放の指定を受けました。12月には持株会社に指定され、1948年2月には集中排除法が適用されるなど、松下電器は解体の危機に直面しました。

神様から神様と呼ばれた男「高橋荒太郎」

このような厳しい状況にもかかわらず、松下電器は生産再開を目指して積極的に許可申請を行い、GHQに対して事情を説明し続けました。社員たちは一丸となり、民需生産への転換を進める努力を惜しみませんでした。その結果、次第に生産再開が許可されるようになり、松下電器は戦後の混乱を乗り越えて復興の道を歩み始めました。

なお、この時にGHQとの交渉にあたったのが、幸之助の右腕ともいえる高橋荒太郎でした。幸之助は経営の神様と呼ばれていますが、高橋氏は、幸之助氏は「神さん」と呼ばれるほど信頼を得ている人物です。

松下幸之助と熱海会議

幸之助氏が経営者人生を振り返って、最も印象的だった瞬間として挙げているのが、熱海会議です。

昭和36年に会長職に退いた幸之助氏は、京都の別邸「真々庵」を拠点に、会社の日常業務から離れていました。とはいえ、既に幸之助氏の名前は経済界に広く知られており、講演や取材などで忙しくしていました。

一方、会社は家電ブームが一巡すると同時に、過当競争も激しくなり、業績の低迷が続いていました。そこで幸之助氏は、販売会社、代理店を集めて会合を開くことにします。場所は熱海です。

時間制限なし、議題なしの真剣勝負

幸之助氏は事前に「今回の会合は日にちを切らない」「議題はあえて用意しない」「策はないが、とにかく徹底的に話し合う」という心構えでこの会合に臨みます。また、会合前日には会場を細かくちぇくし、「これでは、出席していただく方全員のお顔が見えない」と言い、椅子の配置を変更するよう指示しました。それほどこの会合に想いをかけていたのです。また、200枚もの「共存共栄」の色紙を用意しました。共存共栄は、販売店と松下電器の関係性の在り方を示したものです。

会議が始まると、不安は的中しました。多くの販売会社・代理店が赤字に苦しんでいたのです。幸之助氏は、販売会社・代理店の努力不足ではないかという思いを抑えきれず、出席者の発言に激しく反論しました。しかし、出席者の松下電器に対する不満は予想以上に強かったのです。激論は平行線をたどり、幸之助氏もたちっぱなし、3日目に入っても結論が出る気配はありませんでした。

涙を流す松下幸之助

しかし、3日目の昼頃、幸之助氏は態度を変えます。「皆さんの言い分はよく分かった。松下が悪かった」と頭を下げ、涙ながらに話し始めたのです。もはや誰が悪いと言い合っている場合ではないと悟ったのです。

その発言がきっかけとなり、会場の雰囲気は一変します。共存共栄の言葉のごとく、お互い協力しあうことで場が治まったのです。

幸之助氏は、会議で約束したことを実行するため、会議終了から約3週間後に営業本部長代行に復帰しました。この決断に世間は、やっぱり松下電器は松下がいないとうまく行かないと批判しましたが、幸之助氏は意に介しませんでした。

新販売制度を確立

そして、新しい販売制度を確立します。

  • 一地域一販社制
  • 事業部、販社間の直取引
  • 新月販制度

の三つでした。

この改革にも各方面から反発がありましたが、結果として理解を得ることに成功します。

実際、この新販売制度が軌道に乗り始めたことによって、販売会社・代理店の経営も回復の兆しを見せ始めました。

昭和40年、「勲二等旭日重光章」を受章した幸之助氏に、全国の販売会社・代理店から「天馬往空之像」が贈られました。これは、「共存共栄」の信念を実行した幸之助氏への感謝の表れでした。



松下幸之助はなにがすごいのか?

以上、幸之助氏の経歴を見てきましたが、最後に、幸之助氏の何が凄いのかをまとめてみましょう。

家電の普及によって、婦人の解放を行った

松下幸之助は戦後の日本において家庭用電化製品の普及を推進しました。これにより、家事労働の負担が大幅に軽減され、特に婦人の社会進出に大きな影響を与えました。洗濯機、冷蔵庫、掃除機などの家電製品の普及により、従来の手作業からの解放され、家事に費やす時間が大幅に短縮されました。これにより、婦人たちは自己の時間を有効に活用することが可能となり、社会的な活動や職業への参加が促進されました。

日本で初めて事業部制を導入

松下は松下電器産業(現在のパナソニック)において、日本で初めて大規模な事業部制を導入しました。この制度は各事業ごとに独立した部門(事業部)を設け、それぞれの事業部が自律的に運営される体制です。事業部制の導入により、組織内の効率化が図られ、迅速な意思決定と市場対応が可能となりました。また、事業部ごとの専門化が進み、製品開発や市場展開の速度も加速しました。

最も売れたビジネス書著者

松下幸之助はその経営哲学や人間観を多くの著書にまとめ、日本で最も売れたビジネス書著者の一人として知られています。ちなみにPHP社によると、令和5年8月31日現在の売上ランキングは以下の通りです。

  • 道をひらく – 569万部
  • 指導者の条件 – 102万部
  • 商売心得帖 – 92万部
  • 物の見方 考え方 – 87万部
  • 素直な心になるために – 73万部
  • 社員心得帖 – 63万部
  • 崩れゆく日本をどう救うか – 62万部
  • 人生心得帖 – 56万部
  • 私の行き方 考え方 – 55万部
  • 経営心得帖 – 48万部
  • 実践経営哲学 – 47万部
  • 道は無限にある – 38万部
  • 若さに贈る – 36万部
  • その心意気やよし – 36万部
  • 続・道をひらく – 35万部
  • 人を活かす経営 – 32万部
  • 一日本人としての私のねがい – 32万部
  • なぜ – 31万部
  • 私の夢・日本の夢 21世紀の日本 – 31万部
  • 思うまま – 31万部

戦後最大の金持ち

松下は戦後の日本において、急成長を遂げたパナソニック(当時の松下電器産業)の設立者として、莫大な富を築きました。彼のリーダーシップとビジョンにより、企業は日本経済の中心的存在となり、彼自身もその成功によって戦後最大の富豪となりました。彼の財産は多大な社会貢献活動にも投じられ、日本経済の発展に大きく寄与しました。

PHP運動の普及

PHPとは、Peace and Happiness through Prosperity(繁栄によって平和と幸福を)の頭文字を取った言葉で、松下幸之助が創設したPHPグループの理念を表しています。この概念は、物質的・精神的な豊かさを通じて真の繁栄を実現し、それによって人々に真の平和と幸福をもたらすことを目指しています。

PHPの理念は、人類の進歩と発展を、より効率的かつ調和のとれた形で達成することを提唱しています。松下は、人間には本来、進歩と創造の能力が備わっていると考え、これを「磨けば輝くダイヤモンド」に例えています。つまり、人間の潜在能力を適切に引き出し、磨くことで、社会全体の発展につながるという考えです。PHPが発行する雑誌は月間100万部を超えていたこともあり、各界に大きな影響を与えました。

松下政経塾の発足

松下政経塾は、松下の経営哲学とリーダーシップを学ぶ教育機関として設立されました。若手のリーダー候補を育成し、日本の経済および社会の発展に寄与することを目的としています。松下政経塾は、実践的な経営教育と人間的な成長を同時に促進するプログラムを提供し、首相をはじめとして、多くの人材を輩出しています。

まとめ:同行二人

以上、松下幸之助の何が凄いかを見てきました。

同行二人(どうぎょうににん)とは、一人で歩いていても、心の中で弘法大師(空海)が常に側にいて、お遍路の行く道を共に歩んでいるという意味です。

幸之助氏の伝記を書いた北康利氏は、同行二人という言葉を使って、偉大な人物の伝記に親しむことを伝えています。ぜひあなたもこの記事をきっかけに同行二人で経営を行っていってください。

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