盛和塾の歴史や解散理由、出身者を解説。やばい、気持ち悪いと言われる理由とは?



清水直樹
稲盛和夫氏が主宰していた盛和塾についてまとめました。

盛和塾とは?

盛和塾(読み方は”せいわじゅく”)は、稲盛和夫氏の経験や教えを通じて学ぶ、経営者を対象とした経営塾です。”心を高め、経営を伸ばす”が合言葉であり、主には稲盛氏が提唱した京セラフィロソフィーや会計原則などについて学ぶ場として運営されていました。1983年にスタートし、2019年末の閉塾時には、国内56塾、海外48塾、塾生数は約15,000名となっています。

>>稲盛氏の功績についてはこちらにもまとめています。

盛和塾の活動

盛和塾の活動は多岐にわたります。塾生は定期的な勉強会や講演会に参加し、稲盛和夫氏から経営の知識や経験を学びます。また、塾生同士の交流や情報共有の機会も提供されます。さらに、市民向けの講演会やフォーラムも開催され、地域社会における経営に関する知識の普及も行われていました。

盛和塾がはじまったきっかけ

盛和塾の前身である「盛友塾(塾長の名前の盛と、友が盛えるの意味)」は、1983年に稲盛和夫氏が京都の若手経営者からの依頼を受けて、25人で発足しました。彼らからの要望を受けて稲盛氏は自身の経験をボランティアとして伝えることの重要性を感じ、若手経営者の成長や日本経済の発展に貢献するための勉強会を継続することを決めました。その後の盛和塾の詳しい歴史については後述します。

会費

盛和塾は、年会費6万円~12万円とされていました。経営のカリスマであった稲盛氏と交流できるという塾の価値からすると、破格にリーズナブルだったと思います。なぜこの値段で運営出来たかと言えば、なにより稲盛氏が完全ボランティアで活動していたからだと考えられます。通常、このクラスの経営者や有名人を講演に呼ぼうと思ったら、一回100万円は下らないですからね。

拠点

盛和塾は、スタートした京都から鹿児島や大阪に広がり、最終的には北海道、東京、盛岡、岐阜、名古屋、横浜、埼玉、群馬、静岡、和歌山、香川、播磨、石川、山口、尾張、愛媛、沖縄、大分、宮崎、海外ではブラジル、中国など、国内56塾、海外48塾にまで広がっていきました。

盛和塾生/出身の有名人

盛和塾からは多数の凄腕の経営者が輩出されました。一例をあげると、パソナグループ創業者の南部靖之氏、エンジャパン創業者の越智通勝氏、元日本代表監の岡田武史氏、一説にはソフトバンク創業者の孫正義氏も一時在籍していたとされています。

盛和塾の解散理由

盛和塾は、2019年末に閉塾となりました。その理由は、稲盛氏の体力的な問題であったとされます。実際、2019年に行われた最後の世界大会も、稲盛氏は体調不良を理由に欠席されています。当大会では、稲盛氏のメッセージが参加者に届けられ、講演の代わりとなりました。

以下、稲盛氏のメッセージ:

「京都の地から始まり、全世界に広がった盛和塾という組織そのものは、本年12月をもって幕を閉じることになります。しかし、これからもフィロソフィを学び続けると同時に、そのフィロソフィを従業員と共有し、会社を健全な発展に導くことを通じて、一人でも多くの人を幸せにしていくという皆さん経営者の使命に変わりはありません。むしろそれは終わりではなく、皆さんにとっては新たな始まりでもあります。今までは私が塾長として、皆さんに語りかけてきました。これからは、皆さん自身が自問自答しながら、この盛和塾での学びをさらに深め、実践していかなければなりません」

-京セラHPより

盛和塾の現在

盛和塾は2019年を持って閉塾となっているため、現在は存在しません。稲盛氏は後継者を立てて継続することも好まなかったため、活動は完全に終了しております。ただ、各地の元塾生、特に世話人が起点となり、自主的に勉強会を行っているところもあります。その場合も、盛和塾という名前は使えないため、各自オリジナルの名称で活動しています。

盛和塾の歴史

盛和塾は、2019年末、その36年の歴史に幕を閉じました。以下にその歴史を振り返ってみましょう。

1980年 JCでの稲盛塾長講演

稲盛塾長が京都青年会議所の講師として講演。講演テーマは「経営戦略と意思決定」であった。それをきっかけに、京都のイレブン(経営者がお金を出し合って開いた会員制バー)にて、青年会議所の会員が塾長の話を聞く場を設け始める。

1983年 盛友塾発足

盛和塾の前身である盛友塾が京都でスタート。当時の参加者は25人だったが、すぐに50人に増加。塾長はボランティアでの活動だったが、その動機は、”京都の人に恩返しをしたい。これからの時代を担い、経済界をリードする君たちがまじめに真剣に勉強をするならばそういう時間を作ってもいい”というものだった。

1987年 盛友塾鹿児島へ

塾長の出身地である鹿児島に稲穂会があり、京都盛友塾との交流という形で、盛友塾鹿児島が発足する。のちの盛和塾鹿児島となる。

1989年 盛和塾に改称

「盛友塾」から「盛和塾」へ名称変更が行われた。名称変更のきっかけは、塾長の友、というのは恐れ多いという塾生からの意見であったとされまる。

1991年 全国組織化スタート

盛和塾の全国組織化を目指し、「100塾5,000人構想」が打ち出される。このころ、盛和塾は全国各地で勉強会や大会を開催し、塾生数は増加していった。全国組織化にあたて、塾長は「盛和塾全国組織化趣意書」を発行される。

1992年 機関誌創刊&全国大会スタート

全国組織化とともに、事務局の体制も強固になり、機関誌と全国大会がスタートした。

盛和塾機関誌

機関誌は季節ごとに、156号まで発刊された。

盛和塾の機関誌。創刊号と最終号。
左:創刊号、右:最終号

盛和塾全国大会

また、第一回の全国大会が行われた。全国大会は、京都宝ヶ池プリンスホテルにおいて、2泊3日で行われた。塾長の講話の他、経営体験発表会や懇親会などが行われる。

1990年、1991年と全国合同例会として年に一度、京都で 塾長を迎えて、半日をかけて経営体験発表会が実施されてきた。その後、全国世話人会(拠点の管理人みたいな人達が集まる会)で、「将来は単な る合同例会ではなく、盛和塾の年に一度のお祭りという要素 も加え、夫婦同伴で参加する全国大会を企画しよう」との話 し合いがなされ、全国大会にしようということになる。第一回目の全国大会には300人以上の経営者が全国から集まった。(2011年には世界大会に規模が拡張される)

1993年 海外塾

初の海外であるブラジル塾が開塾となる。商習慣が異なるブラジルで奮闘する日本人経営者を主な対象として、塾長の講演や指導が行われた。

2004年 アメリカ開塾

アメリカ初の塾として、盛和塾USAが発足する。

2010年 JAL応援団を結成

稲盛塾長が日本航空の会長に就任されたことに伴い、塾生有志によって、JAL応援団を結成。これが大いにJAL再建に貢献したともされる。



2019年末 閉塾

塾長の体力の限界に伴って、閉塾となる。なお、塾長の最後のメッセージとして、機関誌最終号に以下の言葉がある。

「人生で一番たいせつなこと」(抜粋)
何があろうとなかろうと、とにかく前向きに必死で努力をする。 その合間に心がフッと なった時には童謡を歌い郷里のことを思い出してこころをなぐさめて、また熱意を持って 努力をするというのが若いころの私だったような気がします。
ですから、環境が悪かろうと何がどうであろうと、とにかく自分の人生を一生懸命前向きに生きるということが、人生で一番大事なことだろうと、私は自分の体験からそう思います。

盛和塾がやばい、気持ち悪いと言われる理由

さて、多数の経営者が学んだ盛和塾ですが、一部には、”やばい”、”気持ち悪い”などという評判もあるようです。なぜそのような評判が立つのか、考えてみましょう。

カリスマ稲盛氏への過度な傾倒が気になる人がいる

盛和塾塾長である稲盛氏は、間違いなく稀代の経営者でした。なので、日々苦労して経営する社長たちが稲盛氏を尊敬し、学びを得ようとするのは当然です。

一方、盛和塾の中で稲盛氏があまりにも神格化され、塾生たちが塾長を拝み奉る雰囲気を見て、それが自分には合わない、と思う人もいたことでしょう。

盛和塾のコミュニティが合わない人がいる

一部、ベテラン塾生が大きな顔をして、新人の塾生を指導するということもあったようで、それが気に食わずに辞めていった人もいるでしょう。そのような状況は稲盛氏の意図するところではなかったはずですが、盛和塾のようなカリスマを頂点とした組織形態では、ベテランが新人に厳しく当たるのはよくあることです。

京セラフィロソフィが宗教っぽいと感じる人がいる

一般の経営塾と異なり、盛和塾では企業戦略や技術について語られることはあまりなく、いかに経営者として心を高めるか?に焦点が当てられます。”心を高め、経営を伸ばす”がテーマであり、その心を高めるための教科書のようなものが、”京セラフィロソフィ”です。要は盛和塾にとっての教典が京セラフィロソフィなのです。その結果、必然的に話のテーマが宗教っぽくなったり、哲学チックになったり、スピリチュアルっぽくなったりします。実際、稲盛氏は晩年、仏道入りしており、そこからの話もかなりありました。

>>(参考)六波羅蜜を経営に活かすには

そこで、京セラフィロソフィの考え方に合わない、またはその普及方法が合わない、という人がいてもおかしくありません。そういう人にとっては、盛和塾は新興宗教っぽく感じられ、気持ち悪い、と思ったこともあったのかもしれません。

ただし、自分たちの価値観に合う人を集めるということは組織運営の原理原則であり、それが合う人は組織に留まるし、合わない人は去っていくというのはどんな組織でも同じことです。

 

まとめ

以上、盛和塾の概要や歴史、また、盛和塾が”やばい”、”気持ち悪い”と言われる理由などもご紹介してきました。

いずれにしろ盛和塾は経営者にとって、他では学べない貴重な場であったことは間違いなく、それが無くなってしまったことは、日本経済界の大きな損失と言っても過言ではないかもしれません。私たちは関連する書籍や口伝によってその精神を学び、経営に当たってきたいものです。

 

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