「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」を完全解説。経営での実践方法も。

清水直樹
「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」という言葉があります。今日はこの意味やビジネスでの活用にしてご紹介していきます。

 

「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」の意味とは?

「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」とは、自己満足のために行う善行(小善)が、それが善意から発したものであったとしても結果的に人をひどく傷つける大悪を生み出すことがある。また、それに対して、本気で相手のことを考えて行う善行(大善)は、時として厳しく、情け容赦のない態度(非情)と誤解されることがあるが、努力すれば次元の異なる良い結果を生むという意味になります。

「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」の出典は?誰の言葉?

「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」は仏教用語だとされています。(私が調べた限り具体的にどの文献からの言葉なのかは定かではありません)

その後、武田信玄が口にしたなどの逸話もあったりしますが、この言葉が良く知られるようになったのは、京セラ創業者の稲盛和夫氏が京セラフィロソフィーで語られたことが大きいと言えるでしょう。

稲盛氏が語る「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」の捉え方

稲盛氏の京セラフィロソフィーには次のように解説されています。

人間関係の基本は、愛情をもって接することにあります。しかし、それは盲目の愛であったり、溺愛であってはなりません。

上司と部下の関係でも、信念もなく部下に迎合する上司は、一見愛情深いように見えますが、結果として部下をダメにしていきます。これを小善といいます。「小善は大悪に似たり」と言われますが、表面的な愛情は相手を不幸にします。逆に信念をもって厳しく指導する上司は、けむたいかもしれませんが、長い目で見れば部下を大きく成長させることになります。これが大善です。

真の愛情とは、どうあることが相手にとって本当に良いのかを厳しく見極めることなのです。

 

「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」に関するエピソード

次に、「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」に関するいくつかのエピソードをご紹介しましょう。

野鴨の哲学

IBM100100周年記念映像より

 

野鴨の哲学は、キルケゴールが残したエピソードで以下のとおりになります。

ジーランドの湖畔には、毎年季節になると野鴨たちが渡ってきました。近くに住む老人がはるばる渡ってきた鴨をいたわって毎日餌を与えるようになりました。野鴨は餌がいつもあり親切な老人のいるこの湖がすっかり気に入りました。

そもそも野生の渡り鳥は同じ場所には住み着かないものです。ある季節が過ぎると次の土地に向けて遠くに飛び立つ習性をもっています。ところが、ジーランドの野鴨たちはいつも餌が与えられ何一つ不自由しないこの土地から飛んでいく必要はないように思うようになりました。そして、野鴨たちはこの湖に住み着くようにようになりました。

野鴨たちはいつしか苦労した長旅の記憶を忘れていきました。そんな時、いつも餌を運んでくれ、こよなく愛してくれた親切な老人が亡くなりました。その日から野鴨たちは食べる餌に困るようになりました。餌に困って他の土地に飛び立とうとするのですが、どうしたことか飛び立つことができなくなっていました。気が付くと、知らないうちに肥ってしまい、かつて遠くまで飛べたはずの力が全く失われていました。

やがて湖に嵐がやってきて周りの山々から激流が流れ込んできました。そして、その激流に押し流されて肥った鴨たちは死んでしまいました。

このエピソードは、IBMが社内で共有しているものとして良く知られており、社員に野鴨になれ、と伝えているそうです。

「ビジネスには野鴨が必要なのです。そしてIBMでは、その野鴨を飼いならそうとは決してしません」。

これは、1959年、当時のIBM会長であったトーマス・ワトソン Jrの言葉です。

 

中江藤樹の母親の哲学

中江藤樹は、日本における陽明学の始祖ともいわれている人物です。彼の母親のエピソードにも「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」が現れています。

中江藤樹は九歳の時に祖父の養子となり、伊予の大洲で暮らしていました。冬のある日、母があかぎれや霜焼けに苦しんでいるという話を聞きます。自分のいる大洲の温暖な気候に比べ、母の住む小川村の寒さを思うといてもたってもいられず、薬を買って母の住む村に向かいます。

故郷の村につくと、母が雪の中、思い釣瓶で井戸の水を汲んでいるのが見えました。駆け寄る藤樹を見た母は、「男子が一度目標をもって家を出たならば、めったなことで帰ってきてはなりません。私のことは心配せず、大洲に帰りなさい」と諭し、薬も受け取らず、家にも入れず、藤樹を追い返したとされています。母親は肩を落として帰っていく後ろ姿を、涙を流しながら見送りました。その後、母の深い思いを知った中江藤樹は勉学に励みます。

母親はせっかく戻ってきた息子に対して、一見、非情と思える対応をとります。しかしそれは、息子に対する大きな愛情(大善)だったのです。



 

人に魚を与えれば一日飢えをしのげるが、釣り方を教えれば一生食べていける

これは、老子の「授人以魚、不如授人以漁」という言葉の現代訳です。目の前に飢えた人がいた時、魚を与えればその日1日は生きていけます。これは小善と言えます。一方、魚の釣り方を教えたらどうでしょうか?すぐには魚が釣れないかも知れません。これは非情な対応と言えるかも知れません。

しかし、魚の釣り方を覚え、釣れるようになれば、もう忘れることはありません。人からの恵みを受けることなく、必要な時に必要なだけの魚を手にすることが出来るのです。これはその人に対しての大善と言えるでしょう。

 

映画「セッション」のエピソード

私が好きな「セッション」という映画があります。あらすじは以下のとおりです。

偉大な音楽家になることを夢見て名門シェイファー音楽院に在籍している、ドラマーのニーマンは、生徒からも恐れられる天才教師フレッチャーのバンドに入ることになります。しかし、フレッチャーのバンドに入り喜んだのもつかの間、そこでは僅かなテンポのズレも見落とさない、狂気の指導が待っていました。肉体的な指導だけではなく、人格否定や罵声、家族を侮蔑されたりなど、様々な精神的指導によりニーマンは追い詰められていきます。バンドにはニーマンを入れて3人のドラマーがおり、主奏者のポジションをかけて競い合っていました。フレッチャーの求める異常なまでの完璧な演奏に、手から血を流しながらもドラムを叩き続けるニーマン。それでも偉大な音楽家になるという野心のもと、恋人とも別れて練習に打ち込んでいきます。

教師フレッチャーの狂気ぶりには映画を見た人からも賛否両論がありますが、私がこの映画が好きな理由は、フレッチャーがまさに「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」の精神で指導に当たっていたからです。

ニーマンとフレッチャーが一回だけ、酒を飲みかわすシーンがあります。そこでフレッチャーは次のように語るのです。

私は期待以上のところまで生徒を押し上げたかった。それこそが絶対的に必要なことだ。そうでもなきゃ生まれないんだ。次のサッチモ(ジャズの名プレーヤー。本名ルイ・アームストロング)もチャーリーパーカー(ジャズの名プレーヤー)も。

パーカーはジャムセッションに飛び入りし、ヘマをした。ジョー・ジョーンズからシンバルを投げつけられ、笑いものになった。パーカーが翌朝から何をしたか?練習だよ。ひとつの誓いを胸に、ひたすら練習に没頭した。「二度と笑いものにならない」。一年後、彼は因縁のステージに戻り、史上最高のサックスソロを披露したんだ。

もしジョーンズがこういってたら?「まあ気にするな、チャーリー。上出来だ」

きっとチャーリーは上出来で満足し、バード(パーカーの通称)は生まれていない。そうなってたら、究極の悲劇だった。

このシーンを見た時、私は即座に私の師匠であるマイケルE.ガーバー氏の話を思い出しました。

 

マイケルE.ガーバー氏の指導法

マイケルE.ガーバー氏の過去の講演
1977年から経営者の支援を開始

本サイトに初めてお越しいただいた方に簡単にご紹介しておきますと、マイケルE.ガーバー氏は、世界No.1の中小企業アドバイザーとされている人物であり、世界700万部のベストセラー「はじめの一歩を踏み出そう」の著者です。自身もコンサルタントとして活動しながら、ビジネスコーチング会社を起業し、世界7万社を指導していきました。

私は彼と2010年に出会い、彼の教えを日本の経営者に伝えていく活動をスタートして今に至ります。

ガーバー氏は、自称「人を最も苛立たせる男」です。どういうことかというと、彼は経営者に対して一見、非情ともいえる現実を突きつけ、意識を目覚めさせることを続けてきたのです。これはまさに「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」と言えます。

以下に彼のメッセージを転載しておきます。

多くの講演者やコンサルタントは、聞き手の気分を良くすることだけ言うものだ。

しかし、私はいつも、聞き手の問題の本質に入り込んだ。それによって、文句を言われることもたくさんあったが、事実として、彼らの会社は成長した。彼らが当初、想像もできなかったほど成長した。

他の講演者やコンサルタントに喧嘩を売る気はないが、彼らの話はいつも、何かを実行するための話であるという点で共通している。これは”Being(何かになること)”と”Doing(何かをすること)”で比較できる。



ビジネスオーナーは、大半の時間を仕事を実行すること(Doing)に費やしていて、”Being”が何を意味するのかを考えていなかった。
私がこれまでに伝えてきたのは、私が不幸にも見つけてしまった、彼らが持っている間違った現実認識についてである。これは、みんなが悪いと言っているわけではない。考え方の問題であるということだ。

彼らは、本当はそれまでの人生で慣れてしまったのとは、全く異なる方法で、世の中を考え、感じ、体験したいと思っている。これまで創り上げた全てのことを超えて成長したいと思っている。

実際のところ、誰もがそれを望んでいる。これが欲しい、あれが欲しい、という表面上の欲求ではなく、私たち全員の魂が望んでいることだ。

私のクライアントが新しい視点で現実を見るためには、自分の箱の中から抜け出てもらう必要があった。誰もが自分の箱を持っており、その中に閉じ込められている。そして、その箱を見たがらなかったり、感じたがらなかったり、その箱を自分が創ったことを理解したがらなかったり、そうなればなるほど、ずっと箱に中に閉じこもったままになっている。

しかし、その箱は、彼らが作ったものであるがゆえに、壊すことが出来、超越することが出来る。だから私はなんと言われようとも、彼らが箱から抜け出して、まったく新しい現実を見ることができるように伝えてきた。

真に成功している人々が常日頃からしているのは、まさにそれだ。彼らは新しい視点で現実を見て、自分の魂と外の世界を、とても生き生きとした方法で結び付ける。時にそれは音楽であり、時に詩であり、時にビジネスであるのだ。

あなたもそれと同じことをしたらどうだろう。顧客はすぐに使える秘密を知りたがっている、トリックを聞きたがっている。だから大半のスモールビジネスオーナーは、顧客にそれを提供しようとする。これをどうやるのか、あれをどうやるのか。

しかし、私がこれまでに何度も伝えているように、それでは彼らを職人的な視点で動かすだけであり、ほどほどの、コモディティを売っているビジネスにしかならない。

顧客の本質的な問題とはなんだろうか?

彼らが本当に望んでいる人生とはどのようなものだろうか?

それは時に、彼らが見たくない現実を見せ、聞きたくないことを聞かせる必要があるかも知れない。

by マイケルE.ガーバー

人に教える時の4つのレベル

映画「セッション」に出てくるフレッチャーと、マイケルE.ガーバー氏の指導法は非情であるが、大善である、という点で共通しています。彼らの指導法を体系的に理解するために、人に教える時の4つのレベルが役立ちます。これは私がガーバー氏等から教えを受ける中で見つけ出したものです。

レベル1.セオリーを教える。

こうしたらこうなる、というような物事の理論を教える。学校の先生の大半はこれをやっています。

レベル2. ハウツーを教える。

〇〇のやり方、という感じで、理論を実世界で役立てる方法を教えます。一般的なコンサルタントや教師はこれをやっています。

レベル3. ゴールに導くことで、人生を変えさせる。

その人が立てた目標に到達するための方法を教えます。これは一流の教師のみが出来る領域です。

レベル4. 人生を超越させる。

その人が思っている”自分の限界”を超えて、成長させる(超越:トランセンデンス)。マスターと言える教え手のみが出来る。
フレッチャーもガーバー氏もやりたかったのは、レベル4だと言えます。その人自身が作っている自分の枠組みを超えて成長させることです。そのためには一見非情ともいえる言動もいとわないというわけです。(ちなみにフレッチャーの場合には、生徒に対して罵倒やひどい扱いをしていましたが、ガーバー氏はさすがにそこまではしませんでした)

「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」を経営で実践するには?

「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」は良く知られた言葉ではありますが、心がけていても、実際にはなかなか難しいものです。大善をしようとして非常になれば、相手から嫌われてしまう可能性もありますので、それが怖くて実践できないわけです。

基準値を高める

Good(良い)はBest(最高)の最大の敵と言われています。スティーブジョブズ氏は、まさにこれを実践したことで知られています。彼は商品のあらゆる面に妥協をしませんでした。それが社員からすると非情とも思われたのです。

たとえば、iMacを開発してた時の話です。デザインチームがiMacの外観を仕上げてきました。ジョブズはそれを見ると、「良いね。しかし、中身(パソコンの中身。基盤等)がまだだ」と突き放したと言われています。デザインチームは、顧客が見るのは外観だけなので、それがOKであれば良いでしょう、と言い返しました。するとジョブズは更に言い返しました。「顧客が見るのは外だけだ。しかし、私たちは中身も見るだろう?」と。ジョブズは顧客からは見えないから良いだろう、というような妥協を許さなかったのです。

このように、業務の基準を高めることで、経営者として何を求めているのかを社内に示せるのです。言葉でいうと角が立つ、というのであれば、高い基準を数字目標や方針で示せばよいのです。

 

社員のアイデアにほいほいOKしない

社長の中には、社員のアイデアに対してほいほいOKしてしまう人もいます。これには、二つの理由があると思います。

一つ目は、良い社長と思われたいという欲求からです。このような対応をしていては、今回のテーマである「小善」「大善」の考え方から外れてしまいます。

二つ目は、社員のアイデアをどんどん受け入れることで、自律的な組織を創りたい、というものです。自律的な組織を創るのは良いですが、社員のアイデアを受け入れたからと言って、そうなれるとは限りません。逆に、それまでワンマン体制でやっていた会社が、急に社員のアイデアを受け入れ始めると、組織がバラバラになる可能性があります。これを私たちは「烏合の衆経営」と呼んでいます。

社員のアイデアは、それが会社の目的、ビジョン、価値観に沿っているときのみ受け入れるべきです。したがってまず、目的、ビジョン、価値観を社内に示さなくてはなりません。

 

社員の仕事を奪わない

社員に仕事を任せたけど、どうもうまくいかないようなので、ついつい口出し、手出ししてしまう、ということはありませんか?社員の仕事を手伝ってあげることは、一見彼らの助けになるので良いことのように思えます。しかしこれは、小善である可能性があります。彼らを助けたい、というよりも、上司として、社長としての自分の存在意義を示したい、という欲求から手伝っていれば、小善となります。



多少苦労してでも、社員が自分で仕事を完結し、成果を出せるようになるまで、ただ見守ることも必要なのです。これは非情に思えますが、彼らの将来を思えば大善と言えます。

 

顧客の大善は何か?

最後に、顧客の大善について考えることです。先ほどのマイケルE.ガーバー氏の言葉にもありましたが、顧客が口に出してくる欲求が、本当に彼らの役に立つとは限りません。私たちも良く「〇〇のテンプレートはありませんか?」「〇〇の実例はありませんか?」という要望をいただくことがあります。もちろん、様々な仕組みのテンプレートや実例はあるのですが、それをそのまま見せてしまうと、人によっては丸パクリしてしまうこともあります。これでは彼らの考える力やその後に自分たちで改善していく力も身につかないのです。なので、こういった要求には注意して対応するようにしています。

 

以上、小善は大悪に似たり。大善は非情に似たりについて、その意味や事例、活用法などをご紹介してきました。ぜひご参考にされてください。

 

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