仁義礼智信

仁義礼智信(五常)とは何かを完全解説。



清水直樹
仁義礼智信(じん・ぎ・れい・ち・しん)は、儒教思想の中核をなす重要な概念です。これは、個人の道徳的なあり方や社会秩序を規定するための原則として後世の儒学者によって整理・体系化されました。組織をリードする経営者にとって知っておいて損はない思想となります。そこで本記事では、仁義礼智信ついて詳しく解説します。

仁義礼智信の意味とは?

仁義礼智信は、君主が民を安んじ、社会を調和させ、国を永続させていくことを目的とした、儒教における価値観です。そのため、君主(国王や帝王、現代では組織リーダー)が学ぶべきものとされています。仁義礼智信を合わせて五常(ごじょう)ともいわれています。
君主とは国のリーダーですので、会社で言えば社長ということになります。そのため、仁義礼智信は社長が身に付けるべき価値観とも言えます。
各項目を簡単に言うと、以下のとおりです。
仁義礼智信(五常)
  • 「仁」は人間らしい情け深さや他者を思いやる心
  • 「義」は正義や道徳的な行い
  • 「礼」は社会的な儀礼や作法
  • 「智」は知恵や理性
  • 「信」は信頼や誠実さ
ちなみに、「信」を外して、「仁義礼智」されることがあったり、「・義・礼・智・忠・信・孝・悌」という八徳が提唱されたりと、時代や見解によって様々なバリエーションがあります。

 

仁義礼智信を唱えたのは誰か?

儒教と言えば孔子が有名ですが、仁義礼智信は、孔子自身によって提唱されたものではありません。孔子は紀元前6世紀に生きた思想家であり、彼の教えは後世に広く影響を与えましたが、具体的な仁義礼智信という用語や体系は孔子の時代には確立されていませんでした。

仁義礼智信は、後世の儒学者や儒教の学派によって形成されたものです。これにより、儒教の倫理思想の中核をなす要素として、後代の儒学者たちによって伝承されました。

孟子の四端が発祥か?

仁義礼智信に対する最も重要な貢献の一つは、孟子(Mencius)によるものです。孟子は孔子の教えを後継し、儒教をさらに発展させた重要な思想家でした。

孟子は人間の本性が善であるという性善説を唱え、人間には心の中に仁・義・礼・智という善の素質が備わっていると説きました(四端説)。これらの徳が育まれ、発揮されることによって、個人の心性は善となり、道徳的な人間としての在り方を実現できると考えました。孟子の教えにより、仁義礼智信は儒教の倫理思想の中心的な要素となりました。

日本人儒学者の仁義礼智信に対する見解

伊藤仁斎と荻生徂徠は、江戸時代に活躍した儒学者であり、日本の思想史に深い足跡を残しました。彼らの思想は仁義礼智信を重視する儒教の価値観に基づいています。

伊藤仁斎は、儒教の古典である『論語』に基づいて仁義礼智信を解釈し、これらの概念を日常生活において重要なものとして強調しました。彼は、これらの徳を身につけることによって個人の心身の成長や社会の調和が促進されると考えました。

一方の荻生徂徠は仁義礼智を先王の道としました。また、彼は、仁儀礼智すべてが徳であるという考えを否定し、仁と智は徳(得)であり、礼と義は道であるとしています。(「弁名」)

以下から五常の各項目について詳しく見ていきましょう。

五常の各項目については、論者によってそれぞれの意味づけがされており、様々なバリエーションがあります。

「仁」とは?

仁(じん)は、他者への思いやりや慈愛、共感を意味します。仁は五常(仁義礼智信)の中でも最も中心的な価値であり、「人」という一言で表されることもあります。

荻生徂徠は『弁名』において、「孔門の教へは、必ず仁に依る。その心の聖人の仁と相離れざるを謂ふなり。故に仁なる者は、聖人の大徳にして、君子の以て徳となす所なり。」と述べ、孔子の教えは仁に基づいていると説いています。仁は聖人の心のあり方であり、君子たる資質を持つ重要な美徳であるとしています。

仁は、安天下(社会秩序の維持)と安民(人々の潜在的な能力の開発)を結びつける重要な要素となっています。仁を持つ人々が、自己の欲望だけでなく他者の利益も考慮し、相互に協力し合うことで社会が調和と安定を保つことができるとされています。

仁はまた、礼とも密接に結びついています。礼は社会における適切な行動や慣習を指し、他者を尊重し、相手を思いやる心を具現化するものです。仁を持つ人々は、礼を守り、社会のルールに従いながら他者との関係を築いていきます。

さらに、仁は教化の重要な手段でもあります。徂徠は孔子の教えを尊重し、仁の徳を大切にすることで社会全体がよりよい方向に向かうと信じていました。教えや模範を示すことによって、人々の心が成長し、仁を持つ人間が増えることで社会全体がより調和の取れたものとなるというのです。

「仁」に関する名言

  • 「仁とは人なり」(中庸)・・・仁の徳を持っていればこそ人間である。仁の道こそ人の道である。
  • 「仁は人の心なり。義は人の路なり」(孟子)・・・仁は人の心の自然であり、義は人の踏み行うべき正当な道だ。
  • 「博く愛する之れを仁と謂う」(文章軌範)・・・遍く公平に人を愛する。これが仁である。
  • 道は二つ、仁と不仁とのみ。(孟子)・・・孔子の言葉

 

「義」とは?

義(ぎ)は、個人の欲望や私利私欲を超えて、公共の秩序や道徳的な原則に従おうとする姿勢を表します。これは自己と他者との関係を重視し、社会的なルールや倫理に従って行動することを意味します。

有名な「泣いて馬謖を斬る」という諸葛亮の言葉は義を示していると考えられます。

荻生徂徠は『弁名』において、「礼は以て心を制し、義は以て事を制す。礼は以て常を守り、義は以て変に応ず。この二者を挙ぐれば、先王の道は、以てこれを尽くすに足るに庶(ちか)し。(中略)人多くは礼の先王の礼たることを知れども、義もまた先王の義たることを知らず。故にその解みな通ぜず。」と述べ、礼が心を律し、義が行動を律するとしています。礼と義は密接な関係を持ちながらも、異なる側面を持つものとして認識されています。

義は単なる外的な規制や強制ではなく、個人の内面から出発して行動に反映される道徳的な態度を含んでいます。個人が自らの良心や道徳的な価値観に従って行動することが求められます。義は利己的な欲望や私利私欲に流されず、公正で誠実な行動を実践することを意味します。

経書においても義についての記述が見られます。「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る。」(『論語』里仁16)、「不義にして富(と)み且つ貴(たふと)きは、我(わ)れに於(お)いて浮雲(ふうん)の如し。」(『論語』述而15)など、義を持たない者は利益や地位に執着するだけであり、義に基づいた人間の道徳的価値が重要であることを強調しています。

義は仁とともに、儒教の中心的な徳目の一つとして位置づけられます。仁が他者への思いやりや愛情を表すのに対して、義は自己を律して公正な行動を実践する意味を持ちます。義は社会的な秩序と共存のための重要な道として重視されており、個人の行動が社会全体に影響を及ぼすという儒教の思想において、義の実践は社会の調和と繁栄に繋がるとされています。

「義」に関する名言

  • 「義とは宜なり」(中庸)・・・義とはその時々の宜しきに従っていくことである。仁だけでは慈しみの考えが強く、情におぼれがちである。そこで、ある場合にはそれを断ち切ることもしなければならない。
  • 「羞悪の心は、義の端なり」(孟子)・・・自分の不善を恥じ、人の悪を憎む心は宜のはじまりである(四端の心)。
  • 「その義にあらざれば、その禄を受けず」(韓非子)・・・当然受ける道でなければ、その俸禄は受けない。

 

「礼」とは?

礼(れい)は、人間関係や社会の秩序を維持するための作法や規範を指します。礼は慣習や伝統に基づいて、人間関係や社会の秩序を維持するための作法や規範を指します。その意味で「重んずる例」という意味合いが含まれています。

礼を実践することによって、個人は他者との関係を円滑にし、相互の敬意と信頼を築くことができます。また、礼は感情や欲望に支配されずに行動するための指針ともなります。個人の自律性と社会的な統制が相互に補完しあい、共存共栄の社会が実現されるとされています。

礼の旧字は「禮」で、「示+豊」の形で表現されます。この表意文字から、礼は示すことによって豊かさをもたらす重要な意味があると解釈されます。

孔子は礼を、「聖なる儀式」「神聖なる儀式」という意味合いに加えて、個人の内面に根ざした伝統や慣習を理解し、実践することによって人間の本質を生きる側面と考えました。

礼の例を挙げると、「三年の喪」が挙げられます。この喪の期間は、親が死んだ際に行う喪の儀式であり、中国や朝鮮では古くから存在していました。ちなみに日本も儒教の影響を受けていますが、三年の喪を行うことはありません。これは日本が他の文化や宗教の要素を取り入れながらも独自に文化形成されているからです。

また、徂徠は「礼」については、「礼は物なり」と述べています。これは、「礼」が具体的な物事、つまり外在的な制度を指すという意味です。徂徠の「礼」は、先王たちが制定した治国の方法、すなわち礼楽制度を指しています。



『弁名』においては、「礼なる者は、道の名なり。先王制作する所の四教・六芸、これその一に居る。いわゆる経礼三百、威儀三千、これその物なり」と述べています。これは、「礼」が先王たちが制定した治国の方法、すなわち「道」の一部であり、具体的には経礼三百、威儀三千という礼楽制度を指していると解釈できます。

「礼」に関する名言

  • 「礼は節を超えず」(礼記)・・・礼儀は節度を超えてはならない。度を超えた丁寧さはむしろへつらいに近くなり、特には失礼になる。
  • 「礼を知らざれば、以って立つことなし」(論語)・・・礼は社会に立つ人間の背骨である。だからその例を心に備え、身に付けない者は、世の中に役立つことはできない。
  • 「己れに克ちて礼に復るを仁と為す」(論語)・・・自己を律し、礼に従うことができれば、全世界が仁に帰る(仁の道に従う)。

「智」とは?

智(ち)は、知性や知識だけでなく、道徳的な認識や判断する能力を指します。

智の字体には「矢」が含まれることから、元々は「武器を供えて神意をきく意」という意味合いを持っていましたが、後に「ちえ」と読み、「知」の別字としても使われるようになりました。智は、知識を得るだけでなく、その知識を適切に判断し、行動に移す能力を指します。

仁は他者に向かっていく心情や思いやりを表し、義は道徳的な行為や義務を指しますが、智はそれらの徳を理解し、適切に判断し行動する力を指します。つまり、智は知識だけでなく、それを道徳的な観点から正しく利用する能力を含んでいます。

荻生徂徠は智について「人を知ること」、「言を知ること」、「道を知ること」、「命を知ること」、「人を知ること」など、様々な側面を述べています。、他者を理解し尊重する心、是非を判断する力、適切な言葉や行動を選ぶ洞察力などが含まれるということになります。

「智」に関する名言

  • 「是非の心は智の端なり」(孟子)・・・是と非、すなわち善悪を判断する心は地の端緒である。
  • 「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず」(論語)・・・物事を理解し知っている者は、それを好んでいる人には及ばない。物事を好んでいる人は、それを心から楽しんでいる者には及ばない。

「信」とは?

信(しん)は、一般的には「信用」や「信頼」を意味しますが、儒教の思想においては、より深い意味を持ちます。

信は、自分の言葉や行動に対する責任感や誠実さを表します。つまり、自分が言ったことや約束したことを守り、行動に移すことを指します。また、他人に対する誠実さや信頼性も含まれます。これは、他人との関係を築き、社会の秩序を維持するために重要な価値観とされています。

荻生徂徠は、信と誠を区別して考えています。彼によれば、信は「言に必ず実証がある」ことを意味し、言葉だけでなく、その背後にある行動や証拠が重要であると説いています。これは、言葉だけでなく、行動によって信頼性を示すという考え方を示しています。

『論語』では、言葉を裏切らないこと、信を守ることの重要性が説かれています。『荀子』では、信ずべきことを信じ、疑うべきことを疑うことが信であると述べられています。

これらの教えから、信とは言葉や行動に対する誠実さ、信頼性を持つこと、そしてそれを通じて他人との信頼関係を築き、社会の秩序を維持することを意味すると言えます。

「信」に関する名言

  • 「民、信無くば立たず」(論語)・・・民衆の信頼が無ければ政治は成り立たない。
  • 「信ぜられて而して後に其の民を労す」(論語)・・・君子は人民から信頼されて、その後に人民を労役に服させることができる。

まとめ:仁義礼智信は経営リーダーが身に付けるべき価値観

以上、仁義礼智信について見てきました。論者によって様々な解釈があるものの、全体として仁義礼智信は経営リーダーが身に付けるべき価値観と言えます。これら正しい価値観に基づいて会社の仕組みを作ることで、民、すなわち社員を安んずる組織づくりが出来るのではないかと思います。

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