十七条憲法

十七条憲法は経営十七カ条だ



清水直樹
十七条憲法はそのまま経営十七カ条としても活用できる内容です。改めて学んでみましょう。

 

目次

十七条憲法とは

十七条憲法は、604年に聖徳太子が制定した日本最初の憲法的な法典です。この法典は、役人に対する心構えと行動規範を示したものです。

当時は豪族同士の権力争いが絶えず、中央集権的な統治が求められていました。十七条憲法は、天皇を中心とした国家体制の確立を目指す聖徳太子(推古天皇の摂政)の理念を反映したものだと考えられています。

十七条憲法と冠位十二階の関係

十七条憲法制定の前年603年に、聖徳太子は冠位十二階制度を設けています。これは役人の位を個人の能力で判断するもので、優秀な人材が出自に関わらず登用できるようになりました。

冠位十二階と十七条憲法は、ともに聖徳太子が進めた中央集権化と役人登用制度改革の一環として位置づけられます。前者が人材登用の改革なら、後者は理想の役人像や統治の在り方を示したものです。

冠位十二階は、現代におきかえると社内での人事制度や評価制度に例えられます。

冠位十二階は、役人の位を個人の能力で判断する制度でした。社員の昇進や昇格は、出身校や出身地、家柄ではなく、個人の実力と業績で判断される制度に相当します。優秀な人材を適材適所で登用し、活かすことができます。能力主義に基づく公平な人事評価制度と言えるでしょう。

一方、十七条憲法は、企業の経営理念や行動規範、社員教育に例えられます。

十七条憲法は、役人に求められる心構えと行動規範を定めたものです。会社に例えると、経営理念や企業文化、従業員に求められる価値観や行動指針を明文化したものとなります。

例えば「和を尊重」する協調性の重視や、「多衆に諮る」という民主的意思決定は、現代の組織運営にも不可欠な要素です。三宝を敬う精神性は、経営理念や倫理観の重要性を示唆しています。

この2つの制度により、個人の能力主義と天皇中心の集権体制の確立が同時に促進され、中央集権国家の基盤が整えられていったのです。

十七条憲法が経営に役立つ理由

十七条憲法が現代の経営に役立つのは、その先進的な精神や原則が今なお通用するからです。

また、出自に捉われず個人の能力を重んじる姿勢は、人材育成・登用の原則となります。さらに法の下の平等という観点から、公正な人事評価の必要性も窺えます。

このように、十七条憲法に凝縮された理念や原則は、現代の経営におけるさまざまな課題に通底するものがあり、我々に多くの示唆を与えてくれるのです。

 

第一条 和を以って貴しと爲し

一に曰はく、和を以てたつとしと為し、さからふこと無きを宗と為す。人皆たむら有りて、亦達者少し。是を以て或は君父にしたがはずして、たちまち隣里にたがふ。然れども上やはらぎ下むつびて、事をあげつらふにととのへば、則ち事理自ら通ず、何事か成らざらむ。

和を大切にし人といさかいをせぬようにせよ。人にはそれぞれつきあいというものがあるが、この世に理想的な人格者というのは少ないものだ。それゆえ、とかく君主や父に従わなかったり、身近の人々と仲たがいを起こしたりする。しかし、上司と下僚がにこやかに仲むつまじく論じ合えれば、おのずから事は筋道にかない、どんな事でも成就するであろう。

「和を以てたつとしと為し、さからふこと無きを宗と為す」から学べる経営の教訓

十七条憲法といえば、”和を以って貴し”ですね。いまでも日本文化に根付いている考え方です。一方で、その後の文章はあまり知られていないかもしれません。「忤さからふこと無きを宗と為す」の、「さからふ」とは、悪にさからって、自分を守るという意味があります。つまり、会社経営において「和を以てたつとしと為し、さからふこと無きを宗と為す」とは、組織内にそのような悪が生じないように調和や平和を保つと解釈出来るでしょう。

「人皆たむら有りて、亦達者少し。是を以て或は君父にしたがはずして、たちまち隣里にたがふ」から学べる経営の教訓

党とは、そのまま組織内の派閥のようなものと解釈できますが、それだと「亦達者少し」と意味がつながらないので、”人はみな自己本位に考えがちであるが”と解釈することが出来るそうです。経営リーダーとしては、組織内には立派な人だけがいるわけではなく、みんな私欲もある普通の人だと認識することが大事であると言えます。

ちなみに松下幸之助氏は、社員が50人くらいになったころ、一人悪いことをする社員が出てきて非常に困ったそうです。その時、天皇は悪い人がいても刑務所に入れるだけで、日本から追放したりはしていないということにヒントを得て、人が増えてくれば、悪いことをする人も出てくるものだ、と開き直ったそうです。それから人を大胆に活用することが出来、事業を拡大させていったそうです。

まさに「亦達者少し」ということに気が付いて開眼したのですね。

「然れども上やはらぎ下むつびて、事をあげつらふにととのへば、則ち事理自ら通ず、何事か成らざらむ」から学べる経営の教訓

これは分かりやすいですね。上司部下、よく話し合って物事を進めれば、何事も実現できるということです。再び松下氏の例で言うと、氏は何かを部下に伝える際、常に相談的に話をしていたそうです。つまり、「こう考えたほうが良いと思うんだがどうだろう」という感じで問いかけるのです。普段から上司部下の関係性が出来ていれば、部下も「それは良いですね。そうしましょう」となるのだと言います。

第二条 く三宝を敬へ

二に曰はく、あつ三宝さんぼうを敬へ。三宝は仏法僧なり。則ち四生ししやう(胎生、卵生、湿生、化生の称、凡べての生物をいふ也)の終帰しうき、万国の極宗きょくそうなり。いづれの世、いづれの人かのりを貴ばざる。人はなはだ悪しきものすくなし。能く教ふるをもて従ふ。其れ三宝に帰せずんば、何を以てかまがれるを直さむ。

仏教の三宝(仏・法・僧)を篤く敬えよ。三宝とは、すべての生き物の終着点であり、万国の大本となるものである。いずれの世界で、いずれの人が、この仏法を尊重しないであろうか。人は基本的に悪い者は少ない。よく教えられさえすれば従う。もし三宝に帰依しないのであれば、何を拠り所として迷いを正せようか。

あつ三宝さんぼうを敬へ」から学べる経営の教訓

聖徳太子は仏教を日本に広めたことでも知られていますが、この第二条にその影響が出ています。ただし、聖徳太子は伝来した仏教をそのまま日本に持ち込み、十七条を作ったわけではありません。それより前に入ってきた儒教、そしてもともと日本に根付いている神道。これらを統合させる形で十七条を作ったのです。

ここでいう仏・法・僧とは、文字通り釈迦、仏教の法典、修行僧のことです。当時、これら三者は自らに生きる指針を与えてくれる存在だったことでしょう。そこで現代の経営に置き換えれば、指針を与えてくれる師匠や原理原則、助け合う友人を敬おうということになると思います。

ちなみに続く「四生」ですが、これは生き物の事です。仏教では生物の生まれ方を胎生、卵生、湿生、化生の4つに分類していました。



  • 胎生は哺乳類のように母体内で胎児として育つ生まれ方です。
  • 卵生は鳥類や爬虫類のように卵から孵って生まれる方法です。
  • 湿生は昆虫などが湿った環境から発生する場合です。
  • 化生は天界や地獄界、極楽浄土の衆生が直接姿を現すことを指します。

つまり、世の生き物はすべからく三宝を拠り所としているということです。

「人はなはだ悪しきものすくなし。能く教ふるをもて従ふ」から学べる経営の教訓

この部分は、基本的に人間は善良だが、時々悪い人もいるということを言っています。しかし、きちんと教育や指導をすれば、人は素直に従うものだと言っているのです。

つまり、経営者は次のことを心がける必要があります。

  1. 従業員を基本的に善良な人間だと信頼すること
  2. しっかりと従業員を教育・指導する制度を用意すること

なぜなら、従業員を信頼し、適切な教育を行えば、従業員は自ずと良い方向に導かれるからです。

また、「三宝に帰せずんば、何を以てか枉れるを直さむ」とは、仏・法・僧という三宝が人々の拠り所になっていたことを言っています。

つまり、経営においても、従業員の拠り所となる理念や行動指針を明確に示すことが大切だということです。理念があれば、従業員が迷った時の指針になり、組織を正しい方向へ導くことができます。

簡単に言えば、 ・従業員を信頼する ・従業員を教育する制度をつくる ・従業員の拠り所となる理念を持つ これらが、健全な経営を行う上で重要なポイントになるということです。

第三条 詔を承りては必ず謹め

三に曰はく、みことのりけては必ず謹め。君をばあめとす。やつこらをばつちとす。天おほひ地載す。四時り行き、方気ほうきかよふを得。地天をくつがへさんと欲するときは、則ちやぶれを致さむのみ。是を以て君のたまふときは臣うけたまはる。上行へば下なびく。故に詔を承けては必ず慎め。謹まざれば自らに敗れむ。

天皇の詔を承ったときには、かならずそれを謹んで受けよ。君は天のようなものであり、臣民たちは地のようなものである。天は覆い、地は載せる。そのように分の守りがあるから、春・夏・秋・冬の四季が順調に移り行き、万物がそれぞれに発展するのである。もしも地が天を覆うようなことがあれば、破壊が起こるだけである。こういうわけだから、君が命ずれば臣民はそれを承って実行し、上の人が行うことに下の人びとが追随するのである。だから天皇の詔を承ったならば、かならず謹んで奉ぜよ。もしも謹んで奉じないならば、おのずから事は失敗してしまうであろう。

みことのりけては必ず謹め」から学べる経営の教訓

詔は天皇からの命のことです。言い方を変えれば、天皇の想いの事だと言えます。当時(推古天皇)は豪族が地方にあり、無用な争いをしないように天皇中心の国家を築くために詔に従うことを条文に入れたものと考えられます。

さて会社においてトップは社長です。まず社長が天皇の詔のような、想いを明確にすることが欠かせません。これは理念や方針といった形で示されるでしょう。

「天おほひ地載す」から学べる経営の教訓

これは自然の法則に沿った役割分担を意味していると考えられます。 「君は天のようなもの」であれば、その詔は天地の自然の法則に沿ったものであり、その通りにやれば物事は間違いがないということでしょう。同様に、会社のリーダーが示す理念や方針は、私心や私欲から生まれるものではなく、天地の法則に沿ったものであることが大切です。

簡単に言えば、社長は天の理に沿った思いを持ち、命を発する。そして、部下はそれに素直に従う。互いの役割分担を守り、決定事項を慎重かつ正確に実行する。このような社長と部下の関係性を大切にすることが、経営を成功に導く秘訣であるということでしょう。

第四条 礼を以て本と

四に曰はく、群卿まちぎみたち百寮つかさづかさ、礼を以て本とよ。其れ民を治むる本は、要は礼に在り。上礼無きときは下ととのほらず。下礼無きときは以て必ず罪有り。是を以て君臣礼有るときは、位のつぎて乱れず。百姓礼有るときは、国家あめのした自ら治まる。

高官も役人も礼を正すことを根本とせよ。そもそも人民を治める根本は、かならず礼にあるからである。上の人びとに礼がなければ、下の民衆は秩序が保たれないで乱れることになる。また下の民衆のあいだで礼が保たれていなければ、かならず罪を犯すようなことが起きる。したがって高官と役人が礼を保っていれば、社会秩序は乱れないことになるし、またもろもろの人民が礼を保っていれば、国家はおのずからも治まるものである。

「礼を以て本とよ」から学べる経営の教訓

礼とは儒教で大切にされている仁義礼智信の一つです。御礼や礼儀に使われる「礼」という言葉ですが、そもそもは神への拝礼=祭祀を表すとされています。その本質は、自分が畏れるものを敬うことを通じて、自らの人間性や人格を清めることといえます。会社経営においても相手を敬うことを通じて、人としての道を歩むことが大切だと言えます。

「是を以て君臣礼有るときは、位のつぎて乱れず」から学べる経営の教訓

ここの件は、まずは何より組織の上層部から礼を大事にせよ。それによって、あらゆる組織階層の人たちも礼を大事にし、全体が治まるということを意味しています。

第五条 明に訴訟うつたへを弁へよ

五に曰はく、あぢはひのむさぼりを絶ち、欲を棄て、明に訴訟うつたへを弁へよ。其れ百姓のうつたへは一日に千事あり。一日すら尚しかり。況んや歳をかさぬるをや。須らく訟を治むべき者、利を得て常と為し、まひなひを見てことわりゆるさば、便すなはたから有るものの訟は、石をもて水に投ぐるが如し。乏しきひとの訟は、水をもて石に投ぐるに似たり。是を以て貧しき民、則ち所由よるところを知らず。臣道亦ここに於てけむ。

役人たちは飲み食いの貪りをやめ、物質的な欲をすてて、人民の訴訟を明白に裁かなければならない。人民のなす訴えは、一日に千軒にも及ぶほど多くあるものである。一日でさえそうであるのに、まして一年なり二年なりと、年を重ねてゆくならば、その数は測り知れないほど多くなる。このごろのありさまを見ると、訴訟を取り扱う役人たちは私利私欲を図るのがあたりまえとなって、賄賂を取って当事者の言い分をきいて、裁きをつけてしまう。だから財産のある人の訴えは、石を水の中に入れるようにたやすく目的を達成し、反対に貧乏な人の訴えは、水を石に投げかけるように、とても聴き入れられない。こういうわけであるから、貧乏人は何をたよりにしてよいのか、さっぱりわからなくなってしまう。こんなことでは、君に使える官たる者の道が欠けてくるのである。

あぢはひのむさぼりを絶ち、欲を棄て、明に訴訟うつたへを弁へよ」から学べる経営の教訓

役人が贈収賄や私利私欲に走ってはいけないと教えています。経営者も同じく、不正な利益追求に走ってはいけません。公正さを保つことが大切です。訴訟(トラブル)を公平・公正に裁く判断力が経営者に求められています。事実に基づき、偏りのない公正な判断をする必要があります。

「乏しきひとの訟は、水をもて石に投ぐるに似たり」から学べる経営の教訓

裕福な人と貧しい人を差別してはいけません。経済力の有無で判断を分けるのは公正さを欠きます。会社において貧富の差で社員を差別することはないと思いますが、社長の個人的な好き嫌いで公正さを欠いてはいけないということでしょう。

第六条 悪をこらし善を勧むる

六に曰はく、悪をこらし善を勧むるは、古ののりなり。是を以て人の善をかくすこと無く、悪を見ては必ずただせ。若しへつらいつはる者は、則ち国家を覆すの利器たり。人民を絶つ鋒剣たり。亦侫媚者かたましくこぶるものは、上にむかひては則ち好みて下の過を説き、下に逢ては則ち上のあやまち誹謗そしる。其れ如此これらの人は、皆君にいさをしきことく民にめぐみ無し。是れ大きなる乱の本なり。

悪を懲らし善を勧めるということは、昔からのよいしきたりである。だから他人のなした善は、これをかくさないで顕し、また他人が悪をなしたのを見れば、かならずそれをやめさせて、正しくしてやれ。諂ったり詐ったりする者は、国家を覆し滅ぼす鋭利な武器であり、人民を絶ち切る鋭い刃のある剣である。また、おもねり媚びる者は、上の人びとに対しては好んで目下の人びとの過失を告げ口し、また部下の人びとに出会うと上役の過失をそしるのが常である。このような人は、みな君主に対しては忠心なく、人民に対しては仁徳がない。これは世の中が大いに乱れる根本なのである。

「悪をこらし善を勧むる」から学べる経営の教訓

いわゆる勧善懲悪です。人材を適切に評価することです。社員の良い業績や行いをしっかりと評価し、表彰することが大切です。人事の仕組みのことです。また、社員の間違いや不正行為があれば、毅然とした態度で指導・是正することが求められていると言えます。甘い対応ではなく、厳しく注意をする必要があります。

「亦侫媚者かたましくこぶるものは、上にむかひては則ち好みて下の過を説き、下に逢ては則ち上のあやまち誹謗そしる」から学べる経営の教訓

組織内での悪事は数あれど、その中でも人に媚びたり、阿ったりする人は悪影響が大きいです。彼らは上司や部下に偽りの言動をし、信頼関係を損ないます。率直で健全な人間関係を大切にすべきです。



第七条 つかさどること有り。宜しくみだれざるべし

七に曰はく、人各任掌よさしつかさどること有り。宜しくみだれざるべし。其れ賢哲官によさすときは、頌音ほむるこゑ則ち起り、奸者官をたもつときは、禍乱則ち繁し。世に生れながら知ること少けれども、おもひて聖をせ。事大小と無く、人を得て必ず治む。時急緩と無く、賢に遇ひておのづかゆたかなり。此に因て国家永久、社稷しやしよく危きこと無し。れ古の聖王、官の為に以て人を求む、人の為に官を求めたまはず。

人には、おのおのその任務がある。職務に関して乱脈にならないようにせよ。賢明な人格者が官にあるときには、ほめる声が起こり、よこしまな者が官にあるときには、災禍や乱れがしばしば起こるものである。世の中には、生まれながらに聡明な者は少ない。よく道理に心がけるならば、聖者のようになる。およそ、ことがらの大小にかかわらず、適任者を得たならば、世の中はおのずからゆたかにのびのびとなってくる。これによって国家は永久に栄え、危うくなることはない。ゆえに、いにしえの聖王は官職のために人を求めたのであり、人のために官職を設けることはしなかったのである。

「人各任掌よさしつかさどること有り」から学べる経営の教訓

組織において社員一人一人に明確な役割と責任を割り当てることが重要です。これにより、無秩序や混乱を避け、効率的な業務遂行が可能になります。日本史上、人材登用の方法を体系化したのが冠位十二階です。聖徳太子は、これによってその職に相応しい人物を登用しようと考えたのです。今考えれば当たり前のようですが、封建主義の考えでは血筋や家柄などで位が決まり、必ずしも正しい人物が正しい職についているとは言えなかったわけですね。現代社会においても、学歴が良いから、社長の親戚だから、という理由で同じようなことが起こっている会社もあるでしょう。そうならないようには、明確な組織図とそれに応じた等級の設計が欠かせないと言えるでしょう。

「故れ古の聖王、官の為に以て人を求む、人の為に官を求めたまはず」から学べる経営の教訓

聖王を経営者として考えてみましょう。彼らは最初に会社が必要とする仕事の内容を明確にし、その仕事にふさわしい人材を見つけていました。つまり、人がいるから仕事を作るのではなく、必要な仕事から逆算して、その仕事に最適な人物を選任していたのです。会社の発展のために不可欠な役割を設計し、その役割を全うできる資質の人材を適所に配置することを心がけていました。

一方で、個人的な理由で役職を作ることはしませんでした。人気や名誉のために役割を設けるのはNGで、会社の実際のニーズに基づいてのみ役割を設計し、その役割にぴったりの人物を配属していたのです。人材一人一人の長所や得意分野を見極め、その力を十分に発揮できる仕事を任せることで、人材の能力を最大限に生かしていました。

この教訓は「人に仕事を付けるのではなく、仕事に人を付ける」ことの重要性を説いています。会社の実需から出発し、必要な役割を設計し、その役割にふさわしい人材を徹底的に探し出し、適材適所に配置し続けることが、賢明な経営の基本理念なのです。これは先ほど申し上げた正しい組織図の作り方と同じことを言っています。

第八条 早くまゐおそ退まかでよ

八に曰はく、群卿百寮、早くまゐおそ退まかでよ。公事いとまく、終日ひねもすにも尽し難し。是を以て遅くまゐれば急におよばず。早く退まかれば必ず事つくさず。

官吏は、朝は早く役所に出勤し、夕はおそく退出せよ。公の仕事は、うっかりしている暇がない。終日つとめてもなし終えがたいものである。したがって、遅く出仕したのでは緊急の事に間に合わないし、また早く退出したのでは、かならず仕事を十分になしとげないことになるのである。

「早くまゐおそ退まかでよ」から学べる経営の教訓

ここでいう早い朝とは、一般の始業時間よりも早い時間、そして、おそくというのは、昼頃までを指すそうです。午前中で重要な仕事を終わらせよ、ということですね。私の場合、基本は5時に起き、8時くらいまでは勉強と目標設定、計画づくりに充てています。この条項通りに一般的な人の始業時間前に頭と集中力を要する仕事を終わらせるようにしているのです。そうすることで、昼間は突発的な仕事や人との面談にゆっくり時間を使えるようにしています。

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第九条 信は是れ義の本なり

九に曰はく、信は是れ義の本なり。事ごとに信有れ。若し善悪成敗、要は信に在り。君臣共に信あるときは何事か成らざらむ。

信は義の根本である。何ごとをなすにあたっても、まごころをもってすべきである。善いことも悪いことも、成功するのも失敗するのも、かならずこのまごころがあるかどうかにかかっているのである。人びとがたがいにまごころをもって事にあたったならば、どんなことでも成しとげられないことはない。これに反して人びとにまごころがなければ、あらゆることがらがみな失敗してしまうであろう。

「信は義の根本である」から学べる経営の教訓

信と義はともに、儒教の重要な考えである「仁義礼智信」から来ています。ただし、聖徳太子は大陸から来た儒教をそのまま受け入れるのではなく、順序を変えました。儒教では信は最後に付加されているのに対し、聖徳太子は、「徳仁礼信義智」としたのです。つまり、儒教では信より義が先に来ているのに対して、聖徳太子は信を義より先に持ってきたのです。

信とは信用ということで、義とは人の道です。論語には、「信義に近ければ、言復むべきなり」とあり、これを逆に解釈すれば、人の道に外れていれば、信(約束)を破っても良しとなります。聖徳太子は信と義を入れ替え、そもそも信があるからこそ義が成り立つと考えたのでしょう。

現代社会においても、取引先や顧客との約束は守らなければなりません。約束を守ることで信頼は醸成され、良好な関係が維持できます。安易に約束を破れば、信頼は一気に失墜します。

第十条 人の違ふことを怒らざれ

十に曰はく、忿いかりいかりを棄て、人の違ふことを怒らざれ。人皆心有り。心各執ること有り。彼なれば吾は非なり、我是なれば則ち彼非なり。我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫ぼんぶのみ。是非の理、誰か能く定む可き。相共に賢愚、みみがねの端きが如し。是を以て彼の人はいかると雖も、かへつて我があやまちを恐る。我独り得たりと雖も、衆に従ひて同くおこなへ。

他人に恨みを抱かず、目くじらを立てて怒らず、他者の反抗に激怒しないように心がけること。人それぞれに異なる見解や信念があり、それぞれが自分の立場を正当化する。自分が正しいと思うことが他人にとって間違っていると見なし、また他人が正しいとすることを自分は誤りだとみなすことがある。しかし、自分が完全な聖人であり、他人が愚か者であるわけではない。両者ともに一般的な人間に過ぎない。何が正しいか、間違っているかを決定するのは難しいことである。お互いが賢者であるか愚者であるかは、鐶の端がどこから始まりどこで終わるかのようにはっきりしないものだ。そのため、他人が自分に対して怒っている場合でも、むしろ自分に何かしらの過ちがあったかを振り返えるように。また、自分の意見が正しいと確信していても、他の人々の意見を尊重し、同様に行動することを心がけること。

「人の違ふことを怒らざれ」から学べる経営の教訓

本条は人として非常に大切なことがカバーされていますね。特に多様性が重視される昨今の社会では特に当てはまるのではないかと思います。

経営においては、自分とは異なる価値観や視点を持つ人々と協力し、成功を収めていく必要があります。チームメンバー、顧客、取引先など、様々な関係者と付き合う中で、意見の食い違いや軋轢が生じるのは避けられません。しかし、そういった場合でも、相手の立場に立って考え、その違いを尊重する姿勢が何より重要です。むしろ、多様な視点を受け入れ、活かしていくことで、新しいアイデアや発想が生まれ、ビジネスは発展を遂げていくのです。

一方で、経営者自身も冷静な判断力と柔軟性を身に付ける必要があります。相手の意見に耳を傾け、その都度適切に対応していくことが求められます。怒りや排他的な態度では、関係が損なわれ、ビジネスが停滞してしまう恐れがあります。経営者は常に自己省察を怠らず、過ちがあれば素直に認め、改善に努める姿勢が不可欠といえるでしょう。

第十一条 功過を明察あきらかにして、賞罰必ず当てよ

十一に曰はく、功過を明察あきらかにして、賞罰必ず当てよ。日者このごろ、賞功に在らず、罰つみに在らず。事を執れる群卿、宜しく賞罰を明にすべし。

官吏たちの功績や過失を判断し、賞罰を必ず行わなければならない。ちかごろ、褒賞は必ずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正、明確に行うべきである。

「賞罰必ず当てよ」から学べる経営の教訓

信賞必罰・論功行賞について触れられています。これは現代社会の会社経営においても経営者が頭を悩ますところですね。大切なのは評価基準を明確にすることです。評価基準には様々なものがあり、年功序列や勤続年数、成果主義、行動主義、能力主義など複数の基準を設けて総合的に判断するのが一般的です。なお聖徳太子も取り入れた儒教では、徳と才の2軸を基準にすることがベースになっています。これは会社経営にも多いに適用できると思います。以下に詳しく載せております。

聖人、君子、小人、愚人の違いと、幹部や後継者に求められる資質



第十二条 百姓にをさめとること勿れ

十二に曰はく、国司みこともち国造くにのみやつこ、百姓にをさめとること勿れ、国に二君ふたりのきみく、民に両主ふたりのぬし無し、率土そつとの兆民、きみを以てしゆと為す。所任官司よさせるつかさみこともちは皆是れ王臣なり。何ぞ敢ておほやけともに百姓に賦斂をさめとらむ。

国司や国造は、百姓から税をむさぼり取らぬようにせよ。国にふたりの君はなく、民にふたりの主はない。この国土のすべての人々は、みな王(天皇)を主としているのだ。国政を委ねられている官司の人々は、みな王の臣なのである。どうして公の事以外に、百姓から税をむさぼり取ってよいであろうか。

「百姓にをさめとること勿れ」から学べる経営の教訓

これは特に最近の政府に言いたい人もいるのではないでしょうか。財政がひっ迫したとき、政府が取る方法は二つあります。一つは税を重くすることです。この方法しかないように思えますが、実は歴史を見れば民に重税を課して繁栄し続けた国はあまりありません。そこでもう一つの方法があります。それは税を軽くし、民の経済活動を活発にすることで徴収できる税の総額を増やす方法です。仁徳天皇はこの方法で民と国を富ましたとされています。会社経営においてもこの二つの方法のどちらを採るかは経営者の重要な判断になるでしょう。給与を下げて人件費を下げ、会社の利益を増やすか。または、給与を上げて社員の活動を活発にして会社の売り上げを上げることで利益を増やすか。このどちらかです。

「民のかまど」(仁徳天皇)から考える社長の在り方

第十三条 同じく職掌つかさごとを知れ

十三に曰はく、もろもろ任官者よさせるつかさびと、同じく職掌つかさごとを知れ。或はやまひし或は使つかひして、事におこたることあり。然れども知るを得ての日には、あまなふことさきよりるが如くせよ。其れあづかくに非ざるを以て、公務まつりごとさまたぐること勿れ。

それぞれの官司に任じられた者は官司の職務内容を熟知せよ。病気や使役のために事務をとらないことがあっても、職務についたなら以前から従事しているかのようにその職務に和していくようにせよ。そのようなことに自分は関知しないといって、公務を妨げるようなことがあってはならない。

「同じく職掌つかさごとを知れ」から学べる経営の教訓

ここでは組織力や仕組みの力が語られています。会社の中では、みんなの役割と仕事内容をはっきりさせることが大切です。病気や異動があっても、前から仕事をしているかのように、きちんと仕事を続けなければなりません。「自分は関係ない」と言って、仕事を放り出したりするのはいけません。個人の理由で会社の仕事に支障を来すことは避けるべきです。自分の都合ではなく、会社全体のためを考えて、しっかりと仕事に取り組む姿勢が求められます。特に仕事がブラックボックス化、属人化しているとこの条文を実現することはできないでしょう。そのため、現代では業務のマニュアル化や属人性の排除などが必要になります。

マニュアル作成大百科。実例をもとにコツやツール、テンプレートまでを解説。

属人化の意味とは?解消&排除方法、事例を解説。

 

第十四条 そねねたむこと有るなか

十四に曰はく、群卿百寮、そねねたむこと有るなかれ。我既に人を嫉めば、人亦我を嫉む。嫉妬しつとの患、其の極りを知らず。所以ゆゑに智己れにまされば、則ち悦ばず。才己れにまされば、則ち嫉妬ねたむ。是を以て五百いほとせにして乃ちさかしびとに遇はしむれども、千載ちとせにして以て一聖を待つこと難し。其れ聖賢を得ざれば、何を以てか国を治めむ。

群臣や百寮は人をうらやみねたむことがあってはならない。自分が人をうらやめば、人もまた自分をうらやむ。そのような嫉妬の憂いは際限がない。それゆえ、人の知識が自分よりまさっていることを喜ばず、才能が自分よりすぐれていることをねたむ。そんなことでは五百年たってひとりの賢人に出会うことも、千年たってひとりの聖人が現れることも難しいだろう。賢人や聖人を得なくては、何によって国を治めたらよいであろうか。

「嫉そねねたむこと有るなかれ」から学べる経営の教訓

ここでは組織内の嫉妬や妬みについて戒めるように書かれています。会社内でこのような状態を避けるにはどうすればいいでしょうか。ひとつの方法としては、適材適所ということだと思います。

適材適所が実現できれば、自分の長所や得意分野を活かせる仕事に就くことができるので、「自分の役割が果たせている」と実感でき、満足感が得られます。また、周りの人もそれぞれの長所を発揮できる環境にあるので、「自分はこの仕事が向いていないが、あの人はあの仕事が本当に上手だな」と思えます。自分の実力が過小評価されたりしないので、不満や不平等感がありません。

要するに、個人の強みが発揮でき、互いを認め合える環境があれば、妬む理由がなくなり、チームワークも生まれやすくなるのです。

第十五条 私を背いて公に向く

十五に曰はく、私を背いて公に向くは、是れ臣の道なり。凡そ夫人ひとびと私有れば必ずうらみ有り、うらみ有れば必ずととのほらず。同らざれば則ち私を以て公を妨ぐ。うらみ起れば則ちことわりに違ひのりやぶる。故に初のくだりに云へり、上下和諧あまなひととのほれと。其れ亦こころなるかな

私心を去って公の事を行うのが臣たる者の道である。人に私心があれば他人に恨みの気持ちを起こさせる。恨みの気持ちがあれば人々の気持ちは整わない。人々の気持ちが整わないことは私心をもって公務を妨げることであり、恨みの気持ちが起これば制度に違反し法律を犯すことになる。第一の章で上下の人々が相和し協調するようにといったのもこの気持ちからである。

「私を背いて公に向く」から学べる経営の教訓

ここでは私心を取り去ることが重要であると書かれています。これは経営リーダーにとって最も重要な資質ともいえることでしょう。別の事で言えば、利他の心とも言えます。東洋的な思想では、人はすべからく私心のない純真な心を持っていると考えられています。ところが、そこに余計な人欲が混ざることで純真な心が隠れてしまうのです。そうなると、我欲に染まって経営をすることになり、長期的な繁栄が難しくなります。

利他心を育むには、日頃からそれを心がけ、行動に移すことです。脳には可塑性という特徴があり、利他的な行動を毎日続けていけば、それが習い性となっていきます。

利他の心の意味と仕事で実践する方法

 

第十六条 民を使ふに時を以てする

十六に曰はく、民を使ふに時を以てするはいにしへ良典よきのりなり。れ冬の月にはいとま有り、以て民を使ふ可し。春り秋に至つては、農桑たつくりこがひときなり、民を使ふ可らず。其れたつくらずば何を以てか食はむ。こがひせずば何をかむ。



民を使役するのに時節を考えよとは、古からのよるべき教えである。冬の月の間(10〜12月)に余暇があれば民を使役せよ。春から夏にかけては農耕や養蚕の時節であるから、民を使役してはならない。農耕をしなかったら何を食べればよいのか。養蚕をしなかったら何を着ればよいのか。

「民を使ふに時を以てする」から学べる経営の教訓

ここでは間接的に、民のことを良く知ることの大事さが説かれています。民の生活を良く知らなければ、彼らを上手く使役させることが出来ないわけです。
そもそも日本は天皇が知らす国です。天皇は国民のことを良く知るように日々努めてらっしゃいます。国民を知るとどうなるか?その安寧を祈らずにはいられなくなります。そのため天皇の最大の役割の一つが日々の祈りだとされているのです。そして、祈りが形に現れたものが”和歌(御製)”です。
ちなみに松下幸之助氏も、社員がどんどん増えてくると、自分の目が行き渡らなくなり、社員数が1万人を超えると、もう祈るような気持ちしかわかなかったと発言しています。
同じように、経営者は、社員のことを良く知り、彼らが働きやすいように環境を整えることが大切でしょう。社員に余計な負荷を与えるのではなく、彼らがラクに成果を出せるような仕組みを創ることがリーダーの役割です。

第十七条 必ずもろもろともに宜しくあげつらふべし

十七に曰はく、夫れ事は独りさだむ可らず。必ずもろもろともに宜しくあげつらふべし。少事は是れ軽し、必ずしももろもろとす可らず。唯大事をあげつらはんにおよびては、若しあやまち有らんことを疑ふ。故に衆とともに相わきまふるときは、こと則ち理を得。
物事は独断で行ってはならない。必ずみなと論じあうようにせよ。些細なことは必ずしもみなにはからなくてもよいが、大事を議する場合には誤った判断をするかも知れぬ。人々と検討しあえば、話し合いによって道理にかなったやり方を見出すことができる。

「必ずもろもろともに宜しくあげつらふべし」から学べる経営の教訓

ここでは衆知を集め、議論をして決定することの大事さが書かれています。これはそのまま五箇条の御誓文に引き継がれています。ご箇条の御誓文は明治天皇が布告されたものです。口語訳としては以下のようになっています。
一、 広く人材を集めて会議を開き議論を行い、大切なことはすべて公正な意見によって決めましょう。
一、 身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国を治め整えましょう。
一、 文官や武官はいうまでもなく一般の国民も、それぞれ自分の職責を果たし、各自の志すところを達成できるように、人々に希望を失わせないことが肝要です。
一、 これまでの悪い習慣をすてて、何ごとも普遍的な道理に基づいて行いましょう。
一、 知識を世界に求めて天皇を中心とするうるわしい国柄や伝統を大切にして、大いに国を発展させましょう。
この第一条は第十七条の内容が引き継がれていることが分かると思います。
会社経営においても、経営者が独断で判断するのではなく、衆知を集めて決定していくことが経営者に依存せず運営していくカギといえます。衆知を集める方法は数あると思いますが、なによりも、日頃から社員の声に耳を傾ける姿勢を取り、発言しやすい雰囲気を作り、自然と衆知が集まってくるようにすることが大事だと言えるでしょう。

十七条憲法はそのまま経営の原則になる

以上、十七条憲法について見てきました。御覧の通り、これはそのまま経営の原則としても使えるものといえます。あなたの会社にも経営理念や行動指針などがあると思いますが、ぜひ十七条憲法を見直し、より良いものにされてみてください。

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